3  大航海時代(15世紀〜17世紀頃)にカスピ海で使用された帆船に関することが書いてあるサイトか書籍がありましたら御教えください。

 「主にこんな船が使われていた」程度の情報でも結構ですから、御存知の方は御願い致します。

 最後に、管理人さま。
 御忙しい中、Ans.Qを復旧して頂き、ありがとうございました。
河伯

  1. 河伯さん
     私のような普通の日本人の知識体系のエアポケットを突くすばらしいご質問で、感服いたしました。(今後もこのようなご質問を期待しております)で、結局ろくなデータは見つからなかったのですが、一応わかった範囲で回答させていただきます。

     サファビー朝や、アストラハン=ハン国やイワン雷帝やシルクロードから攻めても、フネの資料は引っかからず、ネット上で拾えたのは、ウィキペディア英語版 Astrakhan の17世紀のアストラハンの図です。ただ19世紀末の本の図版でウイキペディアの記述からはその典拠までは示されていないので、図の船がどの程度歴史的に正しいのか、なんともいえません。
     http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Astrakhan_Russia-v2-p168.jpg

     『ステンカ・ラージン』(土肥恒之 山川出版社)の、ステンカ・ラージンのペルシア遠征(1667〜69年)についての記事の中に「35隻に分乗した2000人のラージン部隊はヴォルガを南下し始めた。」「1969年春、ラージンの部隊は(カスピ海の)海岸沿いに北上を始めた。途中で武器や食糧を補給しながら遠征は続いたが、6月再び(サファビー朝ペルシアの)シャーの大軍と交戦した。コサックの小さいが動きの早い平底船はペルシアの艦隊を「粉砕した」。」(カッコ内はカンタニャック注記)あります。
     また、同書115頁には、当時アストラハンに滞在していて「ラージンを何度か見たことがある」と書いているオランダ人船員ヤン・ストライスの旅行記の英語版(1684年)からの図版が載っています。
     ラージンの船は、船首が高く、一本マストで大きな横帆を一枚だけつけ、船舷に張り出しがあり片舷につき5本のオールと漕ぎ手がいる、大型のボートとでもいうべきものですが、これもどの程度事実に即したものかなんともいえません。

     またケンペル(『日本誌』を書いたケンペルです)が徳川綱吉と会う前、1683年から4年にかけて、アストラハンからアゼルバイジャンまでカスピ海を船で渡っているのですが、そのあたりの記事がなかなか見つかりません。『廻国奇観』の「鎖国論」の部分だけの紹介はいろいろあるのですが。
    カンタニャック

  2. > 補足
     ウイキペディア英語版のアストラハンの図の出典は、フランスの著名な歴史家 Alfred Nicolas Rambaud の「Histoire de la Russie」(1877)の英訳本からでした。ある程度信用してよいものかも知れません。
    カンタニャック

  3. > 1 訂正
    1969年→1669年
    うわっ、ゴメンなさい。また校正不足という悪いクセが…
    カンタニャック

  4.  カンタニャック様
     色々と御調べ頂き、誠にありがとうございます。
     場違いな質問を、自分の思い付きでしてしまったのでは、と心配しておりました。
    >アストラハンの図
     大きな都市の割には小型の船しか停泊してませんね。
     自分には1枚帆のダウ船のように見えます。
     
    >35隻に分乗した2000人 
     平均すると50〜60人。これが乗員以外の戦闘員だとすれば、帆船としては結構な大きさのようにも思えますが、ラージンの船の記述からすると、決して大きくはなさそうですね。
     やはり大型船は稀だったのでしょうかね。

     改めて、ありがとうございました。参考にさせて頂きます。
    河伯

  5. >2000人
     ラージンは一言で言えば海賊ですから、船員と戦闘員の区別はなく、総勢で2000人なのだと思います。

    >大型船
     まったくの推測になってしまいますが、ロシア側についていえば、ボルガ川を遡上することを考慮に入れた船が多かったのではないでしょうか。

    > 蛇足
     ウィキペディア日本語版 スチェパン・ラージン に、「カスピ海を渡るスチェンカ・ラージン」という絵があるのですが、20世紀初頭のものですし、50〜60人乗りにしてはどう見ても小さいようなので>1では挙げませんでした。ただし、19世紀以降もこの程度の船でカスピ海を航海していた可能性はあるとは思います。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Surikov1906.jpg

    カンタニャック

  6.  カンタニャック様、補足ありがとうございます。

     Степан Тимофеевич Разин(スチェパン・ラージン)でググりますと、このような画像もありましたが、ヴォルガ河でのものなのかカスピ海でのものなのかハッキリ致しません。

     http://www.vokrugsveta.com/body/proshloe/pirates/rpirates_02.jpg

     おそらく似た様な船は、両方で使用されていた可能性は高いかと思いますが。
    河伯

  7. ああ、その絵は >1で、私が説明したヤン・ストライスの旅行記の挿絵です。
    大きなサイズの絵もありました。

    http://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A4%D0%B0%D0%B9%D0%BB:Astrakhan-Razin_throws_persian_princess.jpg

     私のつたない描写で誤解を招く事を心配しておりましたが、よかった。
     ストライスの記述に従えば、「酒に酔った」ラージンが連れ帰ったペルシア人の娘をヴォルガ川に投げ込むシーンです。(「ステンカラージン」の歌とは投げ込む状況が違いますが)

     なお、大きな方の絵をご覧になればすぐお気づきになると思いますが、中央のラージンの船のほか、右前の小舟の背景に描かれているやや大型の船や、左後方のたくさんのオールのある船、その後方の艦隊なども興味深いものがあります。
    カンタニャック

  8.  カンタニャック様
     重ね重ね、ありがとうございます。

     何も手掛かりが無く、推測すら出来ない状態でしたので、本当に有難かったです。
     また何かの機会がありましたら、宜しく御願い致します。
    河伯


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