135 戦艦、航空母艦、重巡、軽巡、駆逐艦などにかかわらず日本海軍の艦艇は横須賀、呉、舞鶴、佐世保の各鎮守府に所属していました。
ここからが質問なのですが、

1.これらの各鎮守府籍の艦艇は平時は各港に艦隊、戦隊に関わらず分散して停泊していたのでしょうか?
また、1941年初頭の時点でもこれは変わらなかったのでしょうか?

2.また1941年当時でも各母港停泊だった場合、当時の連合艦隊旗艦は『長門』ですが連合艦隊司令部は在横須賀の『長門』にあったのでしょうか?

3.1の質問の平時に停泊している艦艇は鎮守府艦隊として出撃というか、艦隊を編成して出港するということはあるのでしょうか?また、この場合の指揮官はたとえ編成の中に連合艦隊司令長官座乗の連合艦隊旗艦が含まれていたとしても、鎮守府司令長官でしょうか?

4.1941年の時点で各鎮守府停泊ではなかった場合、各艦の泊地は柱島などでしょうか?

よろしくご教授願います。
陸奥

  1. 日本海軍は大正3年以後、毎年改定される「平時艦隊編制」を定めていました。それ以前でも常備艦隊等の艦隊は存在していました。なので平時でも艦隊は存在します。当然ですが艦隊所属の艦艇は艦隊として行動、訓練します。ちなみに「平時艦隊編制」では全保有艦艇の3割程度の戦力です。そして「戦時編制」になると全戦力が艦隊等に編入されます。「平時編制」から「戦時編制」への移行を「出師準備」と呼びます。
    艦隊に加わらない艦艇は警備艦または予備艦として鎮守府に所属していました。鎮守府には警備戦隊、防備戦隊といった部隊があり、これらが鎮守府の管轄する海域の警備等を担当します。警備艦なら警備戦隊等、鎮守府の戦力として活動及び訓練、予備艦なら定員を減らして係留と考えれば良いでしょう。
    欧州での戦争勃発を受けて昭和15年度艦隊編制のうち艦隊等の外戦部隊は「戦時編制」に近いものとされ、これを「応急戦時編制」と呼びました。
    また、「出師準備」が発令されたのは昭和15年11月15日、戦時編制の施行は昭和16年9月1日ですから、昭和16年初頭には戦時編制に近かった、言葉を変えて言えば大多数の有力艦艇は艦隊として行動していたと言っても良いでしょう。

    1の回答
    平時でも艦隊は艦隊として行動している。41年初頭でもこれは変わらない。むしろ艦隊として行動する艦艇は増加している。
    2の回答
    「長門」は少なくとも開戦時は柱島泊地に停泊していた。行動調書を見ていないので断言はできないが、41年中のいずれかの時点で横須賀に在伯した可能性はある。
    3の回答
    平時でも艦隊が存在するし、鎮守府と艦隊は同格扱いなので鎮守府艦隊なるものは存在し得ない。但し、有事には警備戦隊、防備戦隊が艦隊に協力する可能性はある。
    4の回答
    各艦艇の泊地は各艦艇の所属する部隊の指揮官所定による。
    出沼ひさし

  2. 長い間お礼を書き込めず、申し訳ありませんでした!
    このような素人の疑問にお答えくださってありがとうございました。
    なるほど、このようになっていたのですか……。
    陸奥

  3. 海軍制度沿革を読む機会がりましたので追記です。
    鎮守府艦隊条例が定められ、鎮守府艦隊が編成された時期が2度ありました。
    明治32年6月から明治36年12月までと大正2年3月から大正3年7月までです。
    ただ、いずれも司令官が置かれ、海軍区の警備や訓練、予備艦の保守整備等が主任務ですので、後の防備戦隊、警備戦隊とほぼ同様の規模、任務です。
    3の回答を修正します。

    3の回答
    平時でも艦隊が存在するし、鎮守府と艦隊は同格扱いなので艦隊(条)令による艦隊が鎮守府の指揮下になることはあり得ない。
    但し、有事には鎮守府艦隊、警備戦隊、防備戦隊が艦隊に協力する可能性はある。
    出沼ひさし


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