618 地元の忠魂碑について調べていたところ、不明な点が出てきましたのでこの場で質問させてください。
富山県立山町利田にある大きな塔状の忠魂碑で、砲身を利用したもののようです。銘文には
「・・・上部は日本海々戦に武功をたてし志保丸の砲身で長さ七.三米重さ六.七t、海軍々人として活躍中の曽我大佐 宮崎中尉 保正一等兵曹の三氏が海軍省から拂下げに努力されたものである 大正十三年」
とあるのですが、この志保丸のことがさっぱりわかりません。
何かご存知の情報や文献がございましたらご教授願います。
ついでですが曽我大佐についても掲載文献をご存知でしたらお願いします。
でかーる

  1. すみません。曽我大佐については海軍兵学校卒業者一覧から経歴が分かりました。
    でかーる

  2.  日本海海戦に参加した船舶で志保丸というのはいません。名前が近いのは楠保丸ですが、同海戦時にはロシア義勇艦隊のオリョールという名です。しかも、この船は日露双方とも病院船として使用しており、当然、砲を装備しておりません。
     長さ7.3m、重量6.7tということですが、日本海軍の備砲としては、
    桜と錨様の海軍砲術学校 http://navgunschl.sakura.ne.jp/index.html 砲術講堂>
    砲熕武器 >砲熕武器要目諸元>大正中期 〜 昭和期で調べますと、四十口径安式六吋砲が近く、ロシア側のものとしては、同一ページの露式六吋砲が近い数値となりますが、やや、こちらのほうが長いようです。では、陸軍のものかというと、6インチ砲だとすれば50口径に近いので、カノン砲となりますが、そのような取り回しの大変なものを陸上で使用していたかというと疑問があります。また、6インチ砲を搭載した民間船となると、仮装巡洋艦として使用されたものとなるのですが、こちらにも志保丸の名はありません。
     海軍兵学校卒業者一覧で曽我大佐を見つけられたということですが、だとすれば、おそらく曽我清市郎大佐のことではないかと思うのですが、1924(大正13)年時点で、この人は大佐ではありません。1929年に大泊から洲埼の艦長になった時に中佐だからです。また、1920年に浅間の航海長だった時には少佐ですので、もしかすると、この時点では中佐にもなっていないかもしれません。しかし、兵学校の卒業生で曽我という苗字の人は3人おりますが、残り2人は、曽我清市郎大佐よりずっと後任ですので、この時に大佐ということはありえません。
     ただ、この曽我清市郎大佐は富山県の出身ですので、可能性としては非常に大きいのですが、階級を間違えて碑文に書くだろうかという疑問が生じます。また、26人いる宮崎姓の人で、大正期に中尉になっている可能性がある者は宮崎英少佐、宮崎平大佐、宮崎清大尉、宮崎重敏少将、宮崎武治少将、宮崎保人大佐、宮崎房雄大佐、宮崎定栄大佐、宮崎俊男大佐あたりで、最後の6人が、この頃に中尉になっていると思いますが、いずれも富山県の出身ではありません。
     最後にアジア歴史資料センターで立山町(当時は立山村)のあった中新川郡を検索してみると、鹵獲兵器を下付したという記録はあるのですが、これは1920年のものである上に、陸軍のものでした。もちろん、軍の全記録がアップされているわけではないので、こちらに資料が残っている可能性はあろうかと思っております。
     というわけで、少し調べてみたのですが、この碑文については皆目見当がつかないというか、余計に混迷の度合いを深めさせてしまったのではないかと思っておりますが、一応、回答申し上げます。
     なお、ネットでこの忠魂碑を調べてみましたが、画像はないようですので、どこかにアップしてもらえれば、もしかすると、もう少し分かる人が出てくるかもしれません。
     以上、非常に不満足な回答でありますが、御容赦下さい。
     
    hush

  3. hushさま
    詳細に調べていただき、感謝申し上げます。
    やはり志保丸という軍艦はなさそうなのですね。
    曽我大佐についても、気付かない不自然な点をご指摘いただき、仰る通りだなあと思いました。
    忠魂碑の写真をUPしてみました。
    http://photozou.jp/photo/list/2228921/8549809
    碑文は移設後に作られた比較的新しいものです。
    古くからあった碑文の内容を映したものと早合点していましたが、そもそも以前に碑文はなく、移設に当たって古老から聞き書きしたのかもしれませんね。そうだとすると曽我清市郎氏が最終階級で記載されている点も納得がいきます。
    いずれにせよ、地元の方の夢を壊さない範囲で調べ続けてみます。
    でかーる

  4.  写真を御呈示戴きありがとうございました。
     御高説のようなことも考えられなくもないだろうとは思うのですが、村の年間予算を上回る巨費を投じての事業に、碑がないというのは画竜点睛を欠くというものです。となると、予算不足があったとしても、後日、碑は造られたはずなのです。これは、基壇に張られた各種銘板が示しています。
     銘板の中で一番新しいのは、平成3年の移転建設竣工と書かれたもの、次が、左端の昭和54年の表彰状、そして、その次が富山県知事高辻武邦と書かれたものです。この人物が知事であったのは1948年から56年だからです。残る2枚のうち、片方は昭和14年と書かれており、砲口を飾る鷲と地球を贈られた御礼として製作されたものでしょう。では、碑文字謹書と書かれた銘板は、いつのものかということなのですが、これは、本来、あったはずの碑の一部分であると思っております。
     というのは、一見すると、平成3年のものと字体は似ておりますが、碑という文字がかなり擦れた状態になっており、銘板の縁がギザギザになっているからです。文字が擦れた状態になっているということは、建ってからかなりの年月が経っているということであり、縁が滑らかでないのは、切り取られたからです。どこからかというと、「碑」文字謹書の言葉通りに、碑からです。平成3年の際には碑は製作されずに、基壇だけですから、この「碑」は、当初に建設されたものでなければなりません。他の銘板では、字体が合いませんので、これは銘板ではなく、碑そのものの一部なのです。
     したがって、昭和14年の銘板は、その碑に張り付ける目的で製作されたものでしょう。砲身そのものに張り付けるという方法もありますが、碑に張り付ける目的で別個に製作されたものと考えるほうが自然です。そして、単独で製作されたものですから、字体が異なり、縁が綺麗なのです。また、この銘板以前に碑が製作されていないとおかしいわけですから、碑は、1924年から39(昭和14)年の間に制作されたということになります。
     そして、「海軍大佐」、「海軍軍人として活躍中」ということを勘案すると、碑の製作時期はかなり絞られると思います。曽我清市郎が大佐であり、しかも、現役の時期です。もっとも、それがいつであるかというと、資料の持ち合わせがないのですが、1929年に中佐であったのですから、下付されてから、少なくとも5年間はなかったものと思われます。そして、彼の同期である海兵35期の経歴を調べると、大体は30年代、それも、その前期に予備役に編入されています。たとえば、原精太郎少将という人は同期ですが、1929年に大佐、31年に予備役となり、太平洋戦争に応召されて戦死、少将にとなっており、曽我大佐の場合も、似たような頃に大佐となり、予備役に編入されたと思います。つまり、1929年に大佐となったとしても、30年代の前期までの5-6年の間に制作されたということになります。
     では、この碑は、どうなったのかというと、壊れたか、壊されたのか知りませんが、破棄されたものと思われます。ただ、昭和54年の表彰状、ならびに知事名の銘板が、この碑のためのものであったとすれば、その頃まで残っていた可能性が高いです。もし、敗戦時のどさくさの中で失われたすれば、碑よりも、当時の金属事情から考えて、砲身が残っているとは思えないからです。

     この当時、軍縮条約の関係で廃棄された艦艇の搭載砲が各地に下付されておりますが、写真を拝見しておりますと、これもその一つではないかと思っております。特に、 http://www.navweaps.com/Weapons/WNRussian_6-45_m1892.htm にあります、ロシア海軍の6インチ45口径砲の形状が似ており、重量、全長等が近似しております。これは、露式六吋砲と同じものだと思っているのですが、戦勝記念等で各地に下付された大砲を眺めていると鹵獲品が多くあります。制式兵器の場合、要塞砲等への転用が行われていますが、鹵獲品の場合、部品や砲弾の供給の問題が生じるからです。
     したがいまして、これも、日露戦争時に拿捕したロシア艦艇に装備されていたものを、廃棄したものである可能性が高いと思っております。もし、砲身のどこか、多分、基部のところだと思いますが、そちらにロシア語の刻印があれば確実なところが分かるとは思います。ただし、これを行うには、碑によじ登る必要があるので、難しいとは思っております(また、口径を調べるという方法もありますが、地球と鷲の飾りがあるので、これはもっと難しいと思っております)。

     「"Shiho maru" Ship」でGoogle検索を行いますと、1920年にその名の船が在籍していたようです。これが志保丸かどうか分かりませんが、現在のところ、これ以上の情報は見つけておりません。あとは、利田村史(前回、立山村と書きましたが、戦前だと利田村ですね)のような本を調べてもらう方法がありますが、ネット上ではそのような本が見つかりません。むしろ、富山県立図書館等の郷土資料を持っている所で探して戴いたほうが見つかりやすいと思っております。
     あまり御参考にはならないかとは思いますが。
     
    hush

  5. hushさま
    銘文、砲についてお教えいただき、ありがとうございました。
    確かに銘文がないのは不自然なのですね。
    昨日、県立図書館にて立山町史、利田小学校百年史、利田村の郷土資料等検索機で該当した10数冊を調べましたが、忠魂碑に関する記述は撮影年不明の写真二枚と、「立山町資料上巻」の一文「大正3年8月 高さ5mの砲身 元帥川村景昭書 利田軍人分会発起」という、碑文とは異なる大雑把な情報のみで、かえって混乱いたしました。

    ちなみに、拿捕したロシア艦艇に一時的に日本の商船名(志保丸)をつけた、ということは考えられるのでしょうか?
    志保丸という名前がどこから湧き出てきたのかが依然不明です。

    現時点ではおっしゃるとおり、拿捕したロシア軍船装備品を下付された可能性が最も高い、ということで引き続き周辺調べてみたいと思います。
    全く面識のないわたくしの質問にたいへん丁寧にお答えいただき、hushさまには感謝しております。ありがとうございました。

    でかーる

  6.  鄭重な御礼を賜り、恐縮致しております。また、早速に資料に当たって戴いた上に、興味深い情報を拝見することができ、さらに興味深く思っております。
     「立山町資料上巻」にあります一文の大正3年は大正13年の間違いかと思います。川村景明(昭は誤植と思われます)陸軍大将が、元帥府に列せられたのは1915(大正5)年だからです。したがって、1924年8月には、碑が完成に至らずとも、準備に着手していたものと思われます。
     ただ、既述のように、1924年では曽我清市郎は大佐になっておりません。1930年に軽巡洋艦木曽の艦長になった際には大佐と記録されておりますので、1929年か30年に中佐から昇進したものと思われます。だとすると、大佐進級後に、川村陸軍元帥が碑文を揮毫するのは不可能です。1926(大正15)年に鬼籍に入っているからです。
     そこで、碑文字謹書の「銘板」を眺め直してみたところ、これは川村元帥の文字ではないという結論に達しました。元帥は帝国在郷軍人会長を務めていたので、彼の揮毫は随分と残っているのですが、いずれも「碑」という文字の「石」の部分をかなり高いところに置いており、卑の下部の十の横棒の上に書くという、非常に特徴のあるものです。しかるに、この「銘板」の「石」も比較的高所にありますが、そこまで極端ではありません。また、管見の限りでは、署名の部分は川村景明書となっているものばかりで、碑文字謹書というような書き方をしておりません。
     もちろん、碑文字謹書の部分は別筆という考え方もありますが、他人の書いたものを謹書と書く者はおりません。したがって、川村元帥の原稿をもとに石工が彫ったとか、その時だけスタイルを変えたということがない限り、元帥ではない、誰かの書です。ただ、東郷平八郎のような特徴ある文字ならいざ知らず、このような没個性の楷書では、誰が書いたのか分かりません。ただ、川村の後任会長である一戸兵衛陸軍大将のものではないことは確かです。彼の字も、川村の碑と同じ特徴を持っているからです。
     しかし、このことにより、碑が建立されたのは、1924年以降であることがはっきりします。計画段階では会長である川村元帥に揮毫してもらう段取りになっていたのが、元帥の死により不可能になったのです。しかし、後任の一戸大将に頼まなかったということは、もしかすると、曽我大佐に頼んだのかもしれませんが、彼の書を知らない以上、想像以外の何物でもありません。
     ともかく、利田軍人分会発起とあるのですから、計画はこの段階であったのが、碑の完成はもっと後日になったということでしょう。おそらく、費用が持たなかったのでしょう。

     拿捕艦船中、海軍に編入されたものの中に、志保丸という名はありません。もっとも、陸軍に編入されたものは分かりませんし、海軍を経由せずに、直接、民間会社に渡されたものも分かりません。ただ、このような砲を装備していたのは、軍艦、それも巡洋艦以上の大型艦か、徴用船舶で重武装を施されたものだけです。そして、そのようなものを運用していたのは、日露両国ともに海軍です。したがって、陸軍がそのような砲を装備したものを運用することは考えられません。
     ただ、もし、碑が損壊していたとしたらどうでしょう。通常、碑を更新するのなら文面をそのまま写すと思います。しかし、この文面はメートルを米と漢字表記しながら、トンをtと略記しております。日本々海戦という表記も、現在では、あまりしないものです。また、払下げを旧字で拂下げと表記しながら、戦没、当時は、現在の表記です。そして、碑を切り取るのなら、碑文字謹書などという場所を選ばずに、忠魂碑であるとか、戦勝記念とかいう文字、あるいは、署名の部分を選ぶのが普通だと思います。それがなされていないということは、古老の聞き書きという御高説が正解であるのかもしれません。
     つまり、碑はあったのだが、損壊がひどく、切り取るに足る部分は碑文字謹書のところだけだったという可能性です。そして、もし、この想像があっていたのならば、文面は判読不能なまでになっていたのでしょう。それを、記憶に残っていた部分だけを書き出したものを、石工が、忠実に彫ったという考え方ができます。
     また、上記の表記の不統一から考えると、複数の人物が関与したか、戦前から戦後にかけての教育を受けて、途中で、旧字から新字に変更された人物が考えられます。後者だとすれば、1991(平成3)年頃に、50代ぐらいの人が想起されるのです。
     以上を総合して考えると、元の碑文は、上部は日本海海戦で拿捕されたロシア軍艦で、海軍に編入されて武勲を立てた○○の砲身で、長さは7.2米、重さは6.7頓ある。今回、海軍軍人として活躍中の曽我大佐、宮崎中尉、保正一等兵曹の三氏が海軍省からの払下げに努力され、志保丸を使用して輸送してきたものである。というようなものであったのではないかと思われます。
     推理小説が好きですので、つい、想像に任せての回答になりましたが、お許しください。
     

    hush

  7.  その後も考え続けていたのですが、もしかすると、かつての碑文は一部が失われ、一部が読める状態であったのかもしれません。そのような中で、碑文を再構成する試みがなされたのではないでしょうか。志保丸であるとか、砲身の長さであるとか、重量であるとか、非常に明確であるのに、志保丸という船に、巡洋艦の主砲、戦艦の副砲として使用されるような重砲が装備されていたと書かれているのは、そのためではないかと思われます。
     

    hush


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