859  WW2を生き延びたUボート艦長の自伝に、大戦末期信用できる艦長仲間と乗組員数人だけ集めてUボートで南米に亡命を計画したことが書いてあります。
敵から身を隠し大西洋を横断するだけなら数人で可能だったようです。

 また現代の巨大タンカーなどは10人前後で地球を半周します。
WW2当時の戦艦や空母は現代のタンカーのように移動するだけなら何人くらい必要なのでしょうか
トロッター

  1.  長門、酒匂のビキニ回航時のアメリカ人乗員は前者が180名、後者が165名となっております。これに日本人乗員が加わっていたかどうかは前者については不明ですが、後者については2名の日本人乗員の添乗が求められたが、断られたためにアメリカ人のみで回航されたそうです。
     もっとも、長門は、損傷のために10ノット程度しか速度が出ない状態であり、修理のためにエニウェトックに寄港せざるを得なかったとあります。したがって、多少の余剰乗員を乗せていたとは思いますので、これが最低限必要な人数とは思えませんが、参考までに提示させて戴きます。
     なお、御存知かとは思いますが、現在の船舶は自動化が進んでおりますのでそのような少人数の運航も可能になっておりますが、当時の艦船は保守管理も含めて多数の乗員を要したはずです。
     
    hush

  2.  あと「盗まれた空母」というアメリカの小説があり、空母イントレピッドを盗み出す話が載っています。そして、私の記憶が正しければ、その中に空母を動かすのに最小限必要な人数が記されていたと思います。ただ、何十年も前に読んだ小説で、手許にもありませんので、それがどのていどの人数だったかは定かではありません。また、イントレピッドは太平洋戦争時の空母ではありますが、ヴェトナム戦争まで使用されておりますので、ある程度のメインテナンス・フリー化が行われていた可能性も否定はできません。
     海外建造の艦艇の回航には武器関係の乗員も乗っておりますし(八雲、吾妻、千歳や笠置はどうだったか知りませんが)、解体の場合は曳航が普通かと思いますので、そのようにミニマムの乗員でというケースはほとんどないかと思います。したがいまして、ちょっと隔靴掻痒の感はありますが、このような回答ぐらいしか思いつきませんでした。
     
    hush

  3.  なお、Uボートの場合は、上記と異なって内燃機関ですので、乗員数が随分と少なくなります。たとえば、一番多く建造されたVII型の場合、乗員数は44名です。これを3直で回すのですから、1直あたり14名いればよい計算になります。これは、長距離行動が可能な\型でもほぼ同一です。
     その上、潜水艦ですから、航行しないのなら水中で待機すればよいわけです。したがって、時間がかかってよいのなら、乗員が1直分であっても南米までの航行は可能ということになります。また、魚雷や砲、さらには水測員まで必要としないのなら、Uボートを十人以下の乗員で運行するというのも、不可能ではないと思われます。
     しかし、蒸気タービンを使用する大戦期の戦艦、空母については、多数の機関部員が必要です。これでも、重油を燃料に使用するようになって随分と改善されたわけですが、水上艦艇の場合は潜航して待機することも不可能ですので、当然、最低2直、できれば3直の人員が必要となります。もちろん、ボイラーを1個だけ使うというようなミニマムな使い方で、乗員が疲れたら、洋上に漂泊するというような極端な使い方をするのなら、たとえ戦艦大和であってもかなりの人数を削減できるかとは思います。しかし、それでも十人以下というのはありえないと思いますし、「盗まれた空母」のような例以外では、そのような使い方をする理由が見つかりません。
     回答に対して、何ら書きこまれていないので、もしかすると、御納得されていないのではないかと思い、屋上屋を重ねてしまいましたが、これにて、回答を終了致します。
     
    hush

  4.  ご返事遅れてすみません。
    色々とありがとうございます。
    Uボート艦長の自伝以外にも大和とビスマルクで1000人も乗員の差があることなども以前からうっすらとした疑問でした。
     総乗員数や乗員の階級、兵器に配備される人数等は検索する様々なデータに出ているのですが、そもそも艦を動かすのに最低何人必要かという基本的な数字が意外に見つからなかったのでお尋ねしてみました。
     信濃の沈没時の航海から工員の数を引けばおおよその人数がでるかと考えたのですが工員1000人位とか大雑把な人数でよくわかりません。

     今、思ったのですが当時の貨物船やタンカーの人数が艦を動かすのにも一番近い人数かもしれないですね。また調べてみます。
    トロッター

  5.  御返事を強要して申し訳なく思っております。最近、どこまで返答させてもらってよいのか分からなくて、たまたま、そちら様のところで、書かして戴いたような次第で、他意はございません。御寛恕戴ければ幸甚に存じます。
     ところで、信濃に目をつけられたのは御慧眼かと思っております。なるほど、その例がありましたかと思ったような次第でありますが、信濃の場合、砲術長が着任しており、沈没時に亡くなられております。当然、砲術長しか乗っていないということは考えにくいですし、戦時下の回航に、対空防御を護衛の駆逐艦のみに任すこともなさそうなので、その部分の乗員は乗っていたと考えるべきであろうと思っております。
     では、当時の商船の乗員数から敷衍して考えるというのはどうかと申しますと、これは、あまり参考にならないのではないかと思います。というのは、当時のほとんどの商船が蒸気タービン推進ではないからです。もちろん、戦時標準船等でタービン搭載船もおりますが、これを除くと、一部の高速船で採用されているだけです。商船のほとんどはレシプロ(蒸気機関)かディーゼルでなのです。そして、レシプロの場合は缶(ボイラー)が必要ですが、ディーゼルの場合はいりませんので、これでかなりの乗員数が減ります。
     実際、これは軍艦ですが、ドイツのドイッチュラント級装甲艦の乗員は615〜951名とWikipediaにありますが、シャルンホルスト級戦艦では1668名、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦では1382〜1600名となっています。ドイッチュラント級の乗員が少ないのは、他にも理由はあるのでしょうが、ディーゼル推進だということが大きいかと思います。
     その上、商船の機関は1基1軸が基本ですが、軍艦は2基2軸以上が基本で、大和などは4基4軸です。当然、乗員数が増えます。したがって、レシプロの場合は缶が必要であっても、数も能力も異なりますので、同列には考えにくいとなります。もっとも、商船の場合は、石炭を使用するケースも多いので、これだと乗員が増えるはずです。
     では、他に方法がないのかと考えていきますと、軍艦には定数というものがあります。そして、長門の場合は、桜と錨様が海軍砲術学校 http://navgunschl.sakura.ne.jp/index.html の海軍法規類集の中で、戦艦定員表として公開されています。もっとも、これで航海科の人員が何人か分かるわけではないのですが、機関長機関中佐1というふうに、機関とつきますので、機関科の人数だけは分かります。もっとも、機関士官11、機関特務士官3、機関准士官4、機関下士官83、機関兵209合計310名と出しても、すべてが機関の運転に携わっているわけではないでしょうし、これは全機関を3直で運用するための数です。また、軍艦は死傷者が出るという前提の下に、余裕のある人員定数を定めています。したがって、概数しか出ないわけですが、これから考えると、ビキニ回航時の乗員数というのは、かなりギリギリの線ではなかったかと思っております。
     なお、大和とビスマルクで千人以上の乗員数の差がある点について疑問を呈されておられますが、Wikipediaでは新造時の大和の乗員数は2500で、最終時に3332となっております。これは対空兵装が大幅に増えたことが主因であろうと思っておりますが、ビスマルクの乗員は2092名ですので、新造時の比較では400人程度の差です。これは、大きさの差、主機の差(ビスマルクは3基3軸)、自動化の差等を考えていくと、それほど疑問のある差であるとは思えません。
     以上、長々と書かして貰いましたが、強要の段、重ねてお詫び申し上げます。
     
    hush

  6. 確証の無い記事を見つけまして、それを要約しますと、

    復員船として指定された葛城は当時乗員が47名(兵科27名、機関科12名、整備科1名、医務科1名、主計科6名)しかおらず、航行出来ない為、23名の人事発令したが、3名しか来ず。その後、交渉のもと機関科の定員の80%は確保した。

    逆に考えれば、機関12、整備1、主計6、+23の42名で航行できるのではと思いました。
    デスコン

  7. >6
     デスコン様、フォロー感謝申し上げます。
     亡父もナホトカから舞鶴まで乗っていたはずなのに、復員輸送というものがあったのを、すっかり失念していました。そこで、アジア歴史センターで特別輸送艦、定員で調べたところ、北上の定員表を見つけました。リファレンス・コードC12070534700の7ページ目ですが、そこには准士官以上13下士官、兵76と記されており、合計で89名となっています。そして、その中で缶を担当する下士官、兵が8名となっていて、その少なさに愕然としております。また、復員のためでしょうが、主計、衛生担当が結構な数乗っており、運航のみであれば、もっと少ない人数でいけたようです。したがって、葛城についての御推測は、正しいのではないかと思っております。
     もちろん、この人数で全速発揮は無理でしょうが、戦時における北上の最終乗員数が650名から考えると、随分少ない数であり、いかに軍艦というものが、乗員数において奢っていたかを思い知らされました。
     ありがとうございました。
     
    hush


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