430 日本陸軍の5式15p高射砲と日本海軍の3年式15.5p3連装砲(の中の1門)はともに60口径で仰角、発射間隔、最大射程等よく似ていると思うのですが制式の年に17年の隔たりがあります。この間陸海軍同士の技術交流とかなかったのでしょうか?特に前者は3式12p高射砲の拡大版でその開発・実戦配備に大きな困難を伴い、終戦までに久我山の高射砲陣地に2門配備されたのがすべてだとか。艦載の多連装砲と、固定陣地に配備される高射砲とでは、射撃時の反動等で大きな違いがあり、簡単に流用できないとか何か理由があったのでしょうか?

備後ピート

  1. 本文に書き落としましたが陸揚げされた15.5p3連装砲塔が仰角55度から75度に引き上げられ砲塔ごと呉軍港の対空砲台として転用されたことは知っています。その上で識者の皆様のご意見を伺うしだいです。
    備後ピート

  2.  技術交流は多々あります。15高の元になった三式12高自体が八九式12.7高を参考に作られた火砲です。
     艦載15.5糎砲は螺式尾栓の嚢砲で、信管自動調停装置も備えられていません。つまりこれをそのまま高仰角で使っても、連射性能や調停精度はあまり期待できないのです。
     また固定陣地に配備される火砲も移動はあるんです。陸砲は運搬しやすく分解した上で移動させることを配慮した構造ですが、艦載砲はそれは事実上考慮してません。分解した上で運ぶことはもちろん可能ですが(戦艦主砲だって要塞に持って行ってるわけですから)労力や手間は大きくなるわけで、これも単なる艦砲、それも大きな砲塔砲の流用を躊躇する理由になるでしょう。
     海軍は海軍で余った15.5を使うつもりがあり、陸軍に譲渡してあげられる余裕が無く、新たに陸軍向けに製造するなら陸用に適したものとして一から作るほうがマシだっただろうということではないかと思われます。
    SUDO

  3. SUDO様、回答ありがとうございます。陸軍の火砲は十加十五榴、もしくはその少し前あたりからオートフレッタージュ導入による軽量化が図られてる(分解もしくは牽引車による移動が容易になる)、つまりハンディ(←死語)に作られていることは存じておりました。しかし15p高射砲については写真で見る限りその物々しさから分解・移動を前提としない物と誤解しておりました。また信管及び装薬、尾栓の構造まで、考えが及びませんでした。大いに勉強になりました。重ねてありがとうございます。
    備後ピート

  4. 簡単にいえば、三式十二糎高射砲は17年末に陸軍が初めて本格的にB-17に遭遇して開発が始められたものであり、五式十五糎高射砲は18年中期にB-29の出現情報を受けて開発が始められたものです。
    場当たり的といえばそれまでですが、必要性が感じられてから実戦に就くまでの時間をそれほど長くかけずに完成させられています。


  5. 本題と関係ないのですけれども、三年式十五糎五砲は昭和三年式ではないのでは。
    expery

  6. はて、「最上」の起工がロンドン条約を受けての昭和6年10月、就役が昭和10年の7月ですから、直近の昭和3年と理解していたのですが。大正3年では古すぎ、2603年ではいくら何でも新し過ぎる気がします。ただ新鋭軽巡阿賀野級の15.2p50口径主砲が実は戦艦金剛級の副砲に由来する人力装填式の物(その方が軽く作れるから)だったりしたと思いますので、この点については確信が持てません。引き続き識者の皆様からの情報に期待するしだいです。
    備後ピート

  7. 「三年式」は大正3年式のことですが、この場合は尾栓形式を指すものであって、六〇口径十五糎五砲の開発年度と直接の関係はありません。


  8. >尾栓形式
    自分もそう記憶していたのですが、うろ覚えで確証が無く十五糎五砲自体の開発年度も判らなかったため疑問形になってしまいました。
    十五糎五砲用の九一式徹甲弾が昭和10年に制式化されているので、砲も同時期だろうとは思ったのですが。
    expery

  9. expery様、片様、貴重な情報をいただきありがとうございます。改めて軍艦メカ 日本の重巡を読み返したところ、正20p砲も20.3p(8インチ)砲も皆三年式となっておりました。自らの不明をお詫びいたします。

    備後ピート


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