576 二次大戦後期のドイツ・ソ連歩兵の機関銃火力について教えて下さい。
映画などフィクションで見るドイツ歩兵は米英相手にもソ連相手にも頻繁にMG34/42を使い、この機関銃の火力で頑強に抵抗しているイメージが強いのです。
劇中では少数でも圧倒的多数の敵兵を殺傷または足止めしていますが、実際のところ赤軍兵士がMG火点に遭遇したときどのように制圧したのか、またキルレートのようなものが統計で出ていないか、ご教授ください。
やはりPPShか迫撃砲で立ち向かったのでしょうか?
また、小銃は一人一挺が基本として「同兵数あたりの各種機関銃の装備数」はドイツ軍と赤軍のどちらが多かったのでしょうか?
Ikhatovisch

  1. 第二次大戦当時、どこの国の軍隊でもの軽機は編制表上で歩兵分隊に一丁はあります。
    独軍の場合、特定のエリート部隊なら分隊あたりで二丁持ってることもありますが、部隊全体の数からすれば稀です。
    制圧の仕方は状態によりそのときどきでしょうが、一番やりたいのは砲で直射して吹っ飛ばすことでしょう。それが常にできるかどうかは別の話です。
    キルレートをどういうものを指して使っているかはわかりませんが、あなたの知りたい形での統計が存在するとは思えません。
    各種兵器の装備数が知りたければ、編制表探してください。TO&Eというやつです。
    とーり

  2.  1915年3月10日、Neuve Chapelleでイギリス軍がドイツ軍の(砲撃を生き残った)機関銃陣地に突撃し、2丁の機関銃に1000人の死者を出した戦闘は有名です。これは、横隊の一斉突撃を繰り返したからそうなったのです。機銃があと1丁あったら1500人死んでいたという話ではありません。武器の有効性を実際に出た死者で測るのは、機関銃のように「相手が射程内に来るのを待って撃つ」兵器については適切ではないと思います。「相手がどのように射程内に入ってくるか」を記録したものになってしまうからです。

     例えば37ミリ対戦車砲をもつSd.Kfz.251/10は「小隊長車」とされていますが、大戦初期のドイツ軍優良歩兵師団は37ミリ対戦車砲を72門持っており、トーチカや機関銃座に対しても使われました。日本陸軍も「狙撃砲」や「十一年式平射歩兵砲」をこの目的で配備していた時期があります。このほかにも装甲車の20ミリ砲など、機関銃をアウトレンジできる武器があれば使われました。そうした兵器がなければ、死角から機関銃を持って忍び寄り奇襲をかけるなど、奇襲や回り込みでも対処できました。逆に、村の全周に機関銃の射界を巡らしてハリネズミのように立てこもるような状況もありましたが、戦線の少し後方の話で、もし敵砲兵が呼び込まれれば密集した良い的と見えたでしょう。

     位置が正確にわかっていて、かつコンクリート陣地などでなければ、いずれ射程に優れた兵器か砲爆撃によって撃破されます。ですから全般的に火力で負けているときは足止めは足止めでしかなく、連日の戦闘では銃座の位置を変えるのが常識でした。

     特に大戦前半は、ソヴィエト軍はデグチャレフ軽機関銃を欠いた分隊が多かったようです。実情は編成定数表にもある程度反映されますが、本当のところはわかりません。またPPShと小銃は厳密に比率のルールが決められず、配分されたものを現地で割り振ったようです。ただし戦車軍団(規模的には師団相当)の歩兵の回想録には「PPShしか配られなかった」という記述があります。

     PPShやMP40/42といった短機関銃は連射はできても射程が短いので、軽機関銃と区別する必要があります。
    マイソフ


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