611 http://maisov.if.tv/r/index.php?GreatWarTactics#lb748187
ここや日本語版Wikipedia記事「突撃歩兵」において、ドイツ軍では敵機関銃ポストを遠距離から撃破するための歩兵(突撃歩兵)に随伴する37mm砲を実戦で試したが思うような成果が得られず、実験段階で「37mm砲は役に立たない」と結論付けられ、最終的に軽機関銃や迫撃砲に役割を譲ったかのように書かれています。
しかし協商国側のフランスではピュトー砲が(生産数と投入規模はわかりませんが)正式採用され実戦投入されていますし、さらに日本陸軍は狙撃砲よりも優れた機関銃破壊砲の開発を続け、戦後4年も経った1922年になって十一年式平射歩兵砲として正式化しています。
つまり、歩兵の塹壕突破戦術に適さないとしてドイツでは実験段階で終わった機関銃破壊砲が、協商国では大々的に使われ、1918年の戦いでその実用性が協商国にとっても明らかになったであろう戦後になっても日本陸軍では改良が続けられていたわけです。

ここからが質問なのですが、独軍の評価が芳しくなかった機関銃破壊砲が日本では戦後も開発が続けられたという事実は、協商国側では同種の兵器に独軍とは異なる評価を下し、1918年の戦闘の研究からWW1歩兵戦術の集大成が確立されたであろう戦後でも、機関銃破壊砲には歩兵の装備に組み込むだけの有用性がある、と考え続けていた証左なのでしょうか?
tellus

  1. 戦後四年しか経ってない段階で「1918年の戦闘の研究からWW1歩兵戦術の集大成が確立」されると本気で思っているのですか?ドイツ側の第一次世界大戦戦訓が本格的に日本に導入されるのは、インフレ下のドイツに留学した軍人が帰ってきた昭和に入ってからです。

    にも。

  2. 言葉足らずで申し訳ありません。なにも独軍側の戦訓だけを指しているのではありません。
    独軍だけでなく仏軍もピュトー砲(Canon d'Infanterie de 37 modèle 1916 TRP)を生産配備し、恐らく後半2年間の戦いで実戦に投入しているのですから、フランスを中心に協商国側でも独軍側とは別で独自の「機関銃破壊砲の評価」を下していると考えられます。
    自分が聞きたかったのはそちらが主で、協商国の一員としてフランスから伝わり、日本軍で狙撃砲よりも高性能な十一年式平射歩兵砲の開発を促した「協商国側の機関銃破壊砲の評価」は独軍とは異なるものなのでは? というものです。
    tellus

  3. プトー砲はかなりの数が仏軍に向け量産されています。ショーシャの様に不評で名高い訳でもありません。
    戦後直ぐの段階ならその直近の戦争で同盟国が役に立つとしている機関銃破壊砲の開発が続行されるのは自然だと思うのですが。
    寧ろ何故ドイツ軍が逸早く役に立たないという結論を出したのか、その方が不思議です。

    処で、第二次世界大戦の段階でプトー砲の類は仏軍の第一線に残っているのでしょうか。他に第一線で使った国はありますか?
    趨勢として、この種の砲は大重量化を忍んで対装甲用に進化した(が装甲に追い越された)、事は御存知と思いますが。
    にも。

  4. 大正八年の段階では仏軍の狙撃砲(プトー砲)は陣地戦に適さないとして順次軽迫撃砲に置き換えられていく傾向にあったと歩兵学校の佐官召集記事に触れられていました。
    また、運動戦では戦闘の様相はまた違ったものになるから徒にその価値を否定せず、運動戦における狙撃砲の運用について研究する必要がある、とも。
    伊吹

  5. プトー砲の威力は手榴弾や後年のグレネードランチャーと近似な訳で、見るからにドアノッカーな軽対戦車砲とは真逆に、身体感覚として「ああこれは使えそうだ」と思えるものです。あのクラスの砲は「戦車は駄目でも壕に陣取った歩兵なら何とか成るかも」と感じる物なのです。
    次の質問で答えた通り、プトー砲から連なる「歩兵が搬送できる対火点攻撃兵器」の系譜は冷戦下の無反動砲や対戦車ミサイルに連なっていく訳で、小さいニッチであっても無視出来ないのでは。
    にも。

  6. 「歩兵が搬送できる対火点攻撃兵器」→「歩兵が搬送できる平射の対火点攻撃兵器」
    ひとつ次の質問で答えた通り、プトー砲から連なる「歩兵が搬送できる平射の対火点攻撃兵器」の系譜は冷戦下の無反動砲や対戦車ミサイルに連なっていく訳で、小さいニッチであっても無視出来ないのでは
    にも。

  7. 「○○軍が何かを考えていた(いなかった)」というのは、便利だからよく使われる言い回しですが、じゃあ公的文書のどこにどう出て来るんだ言ってみろと言われるとなかなか難しいものがあります。特に、何と比べてあれはダメだから……という類のことはわざわざ公的文書にする機会が少ないわけで、たまたま有力な人物の回想に出てくるとしても、他の人がどう考えていたのかは結局わからないわけです。

     Sturmbegleitkanoneというのは、こんなやつです。
    http://www.ebay.com/itm/World-War-I-Von-ostlichen-Kriegsschauplatz-Sturmbegleitkanone-in-einem-Walde/301841999325?_trksid=p2047675.c100011.m1850&_trkparms=aid%3D222007%26algo%3DSIC.MBE%26ao%3D1%26asc%3D20140602152332%26meid%3D15e5f43c790747e3936b911f1715440f%26pid%3D100011%26rk%3D2%26rkt%3D2%26sd%3D301755839932

     馬車で引くための大きな車輪がありませんから、多分分解して運ぶんでしょう。ピュトー砲に比べて防盾の分だけ重いのがいけなかったのかもしれませんが、大事なことは、ドイツ軍は突撃随伴砲というコンセプトををあきらめてなどいないということです。馬が消耗するデメリットはあるけれど、75ミリ級の牽引砲を使ったわけです。

     ひるがえってピュトー砲はどうかというと、フランスにも迫撃砲があったわけで、一番でっかい45kg弾は400mしか届かないという代物です。こいつは突撃に随伴しなかったの? と思うわけですね。まあ阻塞砲撃用だったのでしょうが、軽量弾なら1500m以上飛びました。
    https://fr.wikipedia.org/wiki/Mortier_de_58_mm_T_N%C2%B02
     ピュトー砲は最前線の支援火砲として唯一の存在ではないし、それを言えばドイツだってミーネンヴェルファーがあると言えばあったわけです。ピュトー砲がコンセプト通りの機関銃/陣地撃破を「主に」していたかというのは、検証が難しい話だと思うのです。

     さて、ピュトー砲の英語版Wikipedia記事によると、第2次大戦期のフランス軍ではピュトー砲を、25ミリ対戦車砲が不足したとき代用に配備しています。そう、歩兵部隊の対戦車砲は平射歩兵砲にも使えるわけで、ドイツ軍の第1波(開戦時の最優良)歩兵師団では72門装備しています。ソヴィエト軍も45ミリ対戦車砲を歩兵や陣地相手の戦闘によく投入していて、攻撃を撃退したドイツ軍の捕獲兵器報告を見るとたくさん遺棄されています。だからSd.Kfz.251/10みたいな兵器が出てくるのだと思います。アメリカ軍も37ミリM3対戦車砲は榴弾も撃てました。

     そういうわけで、平射歩兵砲と名前はついていないけれど、その代わりになるものは手近にある陸軍が第2次大戦期には多かったのです。

     むしろ第2次大戦期イギリスは6ポンド砲が出回って来るまで、平射歩兵砲として使えるものがなかったわけで(2ポンド砲には榴弾がありません)、迫撃砲で十分と思っていたのか興味はあります。日本の場合、野砲の近代化更新もできなかったわけで、ドクトリン以前のビンボと私はとらえております。
    マイソフ

  8. 陸軍の砲兵将校だった方に直接伺った話なのですが、手近な砲を使い、陣地を直接照準で潰していたそうです。
    どの砲を使っていたかは、記憶に無いので話出来無いのですが、常套手段だったそうです。
    最近海軍の陸戦隊では、47mm砲を使っていたようで、お気に入りと大和ミュージアムで知りました。
    似たようなことなのではと思います。

    青江


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