644 日本陸軍の三八式小銃、九九式小銃について質問です。マレー侵攻、バターン攻略戦など初期の侵攻作戦では、三八式、九九式小銃どちらが前線部隊に配備されていたんですかね? ちなみに私はここで質問する前に実際に戦地で撮られた写真で少し調べてみましたが、写真の精度もあって全然見分けがつきません。
ラーホス

  1.  99式ではないかと思っております。というのは、新式銃の配備は南方戦線を優先したからです。ただし、全部隊に行き渡るほどの数が生産できていたかは不明です。
     というのは、99式の生産開始が1941年、開戦の年だからです。そして、同銃の総生産数は約250万挺といわれていますが、開戦までにどれだけ生産できたかは、資料がなく、不明です。
     ただ、単純に考えれば、仮に41年1月から生産が始まったとして、敗戦までの4年8ヶ月間で平均すると、年間約50万挺という数は出てきます。しかし、戦争後期のほうが、空襲による影響を除けば、生産体制は良好なはずですので、10万挺も生産できていれば多いぐらいで、数万挺程度ではないかと愚考致しております。
     これに対し、マレーシア、フィリピン攻略戦に動員された兵員は、3万5千人と4万数千人の合計約8万人です。しかし、その全員が小銃を装備していたわけではありません。また、補給上の問題は生じますが、歩兵以外は38式でもよかったはずです。したがって、生産された新式銃を優先的に配備していったならば、何とか全戦闘員に行き渡るのではないかと思っております。
     もっとも、これは理論上はそうなるはずであるということであり、実際がどうであったかではありません。その点をお含みの上、御参考の一助になればと思って書きこんでみました。
     
    hush

  2. 38式です。
    1941年度の生産は38式50万挺に対して99式は15万挺に過ぎません。
    生産の立ち上がりのため4/5月は500挺に過ぎず月産2万挺を越すのは12月になってからです。(38式は1944年1月の1万挺の生産が最後です)
    配備は内地部隊からになったようで、38式を使用していた部隊の兵器は交換されていません。(ガ島戦も38式です)
    南方派遣の部隊の兵器が99式に交換になるのは19年頃からですが、全てではなく35師団は99式ですが43師団は38式のままでした。

    poran

  3. 私も38式かと思っていましたが、このようなサイトを見つけました。
    ttp://nihonmasamasa.militaryblog.jp/e188904.html

    こと細かく調べませんでしたが、フィリピン攻略戦に出る前に内地
    或いは根拠地に戻ったり師団として編成された部隊も有るようです。
    11月や12月頃だったら、装備を更新する事も出来そうな気がします。
    暇人

  4. >3
     フォロー、ありがとうございます。
     理論上はそうなると考えて書きこませて戴いたのですが、開戦時はもちろん、1944年頃になって、ようやく南方に配備されたということで非常に驚いています。また、初年度に15万挺も製造されたということも驚きでありました(ただ、年間15万挺を生産するためには、6〜11月の生産がそれぞれ2万挺近くでないといけませんが)。
     しかし、そうなると、なぜ、日本軍は最新兵器を第一線に配備しなかったのかという疑問が生じます。一応、理由としては、初期故障が頻発していた、補給上の問題が生じた、あるいは、兵器としての絶対的な確実性がなかったので、中国戦線で実戦を経てからというのが考えられます。
     うち、初期故障については、そのような話は聞いておりませんし、初年度で15万挺も生産されたのなら、まずありえないと思っております。そして、補給の問題については、4で御紹介戴いたサイトで、小野田元陸軍少尉が92式重機関銃用の銃弾を改造してとありますように、7.7o口径の銃弾の製造を一から始めるわけではありませんので、そのような問題も生じにくいと思っております。
     したがって、残る一つ、兵器としての確実性に不足していたからではないかと愚考致しております。そして、その理由として考えられるのは、反動が大きく、命中率が悪いとされたことに原因があるのではないかと思っておりますが、このような考え方でよろしいのでしょうか。もし、よろしければ御教示戴ければと思っております。
     
    hush

  5. 皆さん、今晩は。
    暇人さんご提示の2枚目と3枚目は38式騎兵銃ではありませんか? 特に2枚目は99式より短いと思います。

    1941年度の生産ですから1942年1月20000 2月35000 3月45000挺と生産数が上がっています。42年度は少し落ちて27万挺 43年度で53万挺です。(38式も相変わらず作ってますが)

    開戦時の小銃が38式なのは既編成師団と補助部隊を99式に変えることは弾薬補給の面から見ても不可能だったからでしょう。決して前線から新兵器に交換したわけではありません。
    実際14師団の軽機は米軍の侵攻時ですら96式3分の2、十一年式3分の1でした。

    99式の配備は1.内地部隊 2.新編成部隊 3.満州 4.支那派遣軍の順で支那派遣軍は殆ど38式の侭であったでようです。
    私は開戦時99式を使用していたのは挺進連隊だけではないかと思っています。
    (海軍陸戦隊は99式の装備が多かった様ですが、結構38式も混じっていて研究が必要です)

    ※92実包は15年9月以降の生産はリムレスになっています、海軍の書類ではそれ以前のセミリム弾は97式車載騎銃のみ使用不可とあります。
    poran

  6. 御指摘の通りみたいです。2枚目は異常に短いし、良く見ると前部リングの形状が駄目みたいですね。

    暇人

  7. >5
     御教示多謝。
     お書きになられているように97式実包の無起縁化は1940年でした。
     いろいろと可能性を検討してみましたが、御教示戴いた可能性が一番高いようです。
     ありがとうございました。
     
     書き込みがエラーになってしまうので、返礼が遅くなりました。
     
    hush


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