119 はじめまして。教えてください。

零戦が、飴色に塗装されていたとのことで、賛否両論色々な論議がされていたと思います。

ところで飴色って具体的には、どんな色なのでしょうか?私のイメージする飴色とは水飴の色のことで赤茶っぽい色です。ネット上の色々なページにある色見本で言うと「8B0000 darkred」あるいは「B22222 firebrick」あたりで光沢があるものを飴色と認識しています。もしくはもう少し黄色かかった「A0522D sienna」か「D2691E chocolate」あたりかもしれません。

このような赤茶系(あるいは赤茶+黄)の色が、零戦に塗られていたと論議されている色なのでしょうか?それとも私の飴色に関する認識がおかしいのでしょうか?

どなたか、零戦に塗られていたと論議されている飴色がどんな色かお教えお願いします。
Zeke

  1. 零戦に塗られていたのは「灰色」です。
    これは文書上で確認できます。
    灰色塗料には顔料として白色と黒色だけが使われています。
    しかし、これを溶かし込む塗料のクリア成分がもともとわずかに黄色みを帯びています。彩度の低い黄色はオリーブグリーンのように感じられますので、やや灰緑色がかった色調であるわけです。
    さらにこの黄色みは経時変化によって増大していきます。
    この状態のことを海軍の文書「空技報0266」では「現用灰色の飴色がかりたる」と表現しているわけです。
    戦後かなり時間が経った零戦の残骸の上ではほとんど黄土色にまで変色してしまっています。


  2. 変色の方向性として8B0000、B22222、A0522D、D2691E いずれも赤すぎます。
    もっと黄色ど真ん中(彩度は低い)な感じです。


  3. 色のイメージを言葉で説明するのは難しいのですが、自分がみた残骸に残った色として一番褐色がかったものは、ダンボールのような色です。一方、羽布に残ったものは、ほとんどストレートのニュートラルグレーという感じです。そしてそれらを両端として、様々な灰色があります。
    片さんが書かれた通り、灰色から褐色に向かい変色していくのだと考えると、灰色、灰緑色、カーキと表現された当時の零戦の色の説明がすっきりと出来るように思います。
    ケンジ

  4. 質問者です。
    零戦の色は灰色でいいのですね。ホッとしました。
    子供の頃作ったプラモデルは「明灰白色」を塗りました。それからずうっと灰色のイメージだったのが、突然飴色と聞いて頭の中が混乱していました。その灰色が経時変化で飴色が強くなり、そして飴色といっても、赤茶系ではなく黄色がかった程度とのことですね。
    すっきり致しました。ありがとうございました。
    Zeke

  5. 便乗質問させてください。漢口基地の12空の零戦11型なんですが、胴体日の丸の中心あたりから前のほうが薄黒く写っている写真がありますが、この色がいわゆる飴色なのでしょうか。零戦11型キットのインストを見ると明灰白色75%に軍艦色25%を混ぜた色ということなのですが、黄土色に変色したものとは違うように感じます。塗り分け方も不思議ですし、識別のためとすれば色が近すぎます。何か目的のある塗装なのでしょうか。
    あらでも

  6. >黄土色に変色したものとは違うように感じます。

    とのことですが、この時期の零戦の色調を示すカラー写真も存在せず、実機機体片も現存しません。
    「明灰白色75%に軍艦色25%」などという混色比にしても、先入観がもたらしただけのものではないのでしょうか。


  7. まだこの色を混色していないので明灰白色を少し濃くした色かなという印象だけです。インスト(飴色とは書いていません)の色を正しいとは思ってはいませんが、具体的な手がかりがあったほうがいいかなと思い記載しました。この写真の機体の胴体前半が明灰白色が劣化変色した黄土色のような飴色で、後半部は何かの理由で色を塗りなおす必要があったため新しく明灰白色を塗ったということでしょうか。
    あらでも

  8. 漢口基地の零戦が胴体前後半で色調が異なる理由ですが、機体カバーによる塗粧劣化の差ではないでしょうか。

    最近は見掛けなくなりましたが、丁度塗り分けに見える位置が終端になるカバーを掛けた零戦の写真があった筈です。

    アンテナ支柱により前後位置が規制されるので、明確な差が出来たものと考えられます。

    翼上面にも斜めに補助翼とフラップの堺目まで覆うものですが、こちらは皺状に広がって位置も一定せず、劣化状況も同様にぼやけています。
    APOC

  9. そういうことだろうと思います。
    塗面が劣化して白っぽくなり、かえって後から塗り直された新しい塗面の部分が濃い色に見える場合もあることは、米軍が撮影した二〇四空機のカラー写真などからも見て取ることができます。


  10. ある程度劣化の進んだ全面白っぽい灰色塗装の零戦21型の色が「模型色の明灰白色」に近い色で製作時は米軍使用のニュートラルグレーに近い色が塗られていたということですか。昭和16年8,9月頃撮影されたという12空の坂井三郎機は重慶出撃から1年くらい経っていますが、胴体の前後の色はかなりの明度差があります。
    あらでも

  11. まあ、こういうことなのだと思います。
    http://www.ww2color.com/search/webapps/slides/slides.php?action=update&primary_key=01083


  12. 重慶上空で国民党空軍を1回の空戦で壊滅させた13機の零戦11型のパイロットで
    現在御存命の三上元少元尉から直接聞いた話では、11型はキャビネットの表面のような暗い灰色だったそうです。また、有名な藤田いよ蔵元少佐が御子息と戦後に作られた零戦プラモデルの塗装は黒っぽい鼠色だったそうです。なお、私が真珠湾攻撃に行った零戦の表面塗装の再現にアドバイスを戴いたときに藤田さんが言っておられたのは、真珠湾攻撃機は白っぽい機体の上に、キャラメル色の半透明の液体が塗られており、夜店のリンゴ飴のようで黄色く見えたそうです。同氏は、その色を古畳色とも言っておられました。また、12試艦の1号機または2号機を横空で見た別の零戦乗りの方も、薄暗い山吹色だったと言っておられました。堀越さんの対談記録では、1・2号機とも<明灰白色>で表面をツルツルにするために<塗料>をぬったそうですから、真珠湾攻撃に行った零戦21型と1・2号機は同じ表面塗装で、同じ外観色に見えたということです。以上の調査結果は三菱重工名古屋の史料室に展示してあります。興味のおありの方は岡野室長へ訪問予約を入れて御高覧ください。
    零戦飴太郎

  13. 零戦を含む海軍機の外面塗粧に使われた灰色の色調は当時の色別規格そのもので確認可能です。これはマンセル表色系で明度5.75程度のグレイです。(純白=明度10、純黒=明度0)
    またこの塗料が三菱の生産ラインで使われていたことも、現存文書で確認可能です。

    いわゆる飴色化、つまり黄変現象は零戦に限らず当時の日本陸海軍機に広範囲に見られ、また灰色に対してだけ起こるものではありませんし、機体外面塗装だけに起こるものでもありません。銀色であろうと、操縦席の淡緑色であろうと、陸軍機の灰緑色であろうと、時を経る中でカーキ色を帯びてゆくことは、現存する実機残骸を多く見る中で確認できることです。


  14. 96艦戦と零戦11型はジュラルミンの加工技術が低かったのと沈頭鋲の出来が悪く、板金の凸凹や鋲の隙間の穴埋めのため、パテとワニスを塗って表面をツルツルにしたそうです。(情報源:@三菱で零戦を製造していた技師の証言A堀越二郎著零戦 朝日ソノラマ発行B藤田イ与蔵少佐の証言 ただし、同氏は林檎飴のような半透明のキャラメル色の液が表面に塗ってあったと言われ、それがワニスとは言われませんでした。@技師は三菱は21型の頃には必要ないと海軍に進言したが、海軍側は32・22型にもぬり続け、52型の下部へも
    塗っていたそうです。目的は防水のためと言っておられたそうです。ただし、もともと堀越二郎はスピードアップを狙った模様です。真珠湾攻撃の21型は非常に薄い鼠色と言うより非常に白に近い機体色(パールグレイと目撃者のダニエル イノウエ上院議員は言っていたそうです)の上に、透明色のようにも見える薄い琥珀色の半透明ワニスが塗ってあったため、南方の強い太陽光線が透過して機体表面で反射して人の目に入るので黄色く見えていたようです。Bのパイロットは古畳色と言っておられました。なお、中国大陸の11型はグレーの外観色に見えていたようですが、飴色コーティングが施されていたので、そう見えており、機体の表面色は白っぽいベージュ色だったのではと思われます。(飴太郎仮説)無塗装の銀色の機体表面に飴色コーティングを施すと金色に輝いて見える場合があったようです。(特にいぶし銀塗装の96艦戦)
    零戦灰色説は11型の外観色が広まったのではと思っています。零戦の色が、統一色となったのはダークグリーン以降であり、それまでは各隊毎に決めていたそうです。1万5千機近くも作られた零戦です。色を統一しようとすることは無意味なことです。では、また!!! 

    零戦飴太郎

  15. 私は飴色派でも灰色派でもありません。当時の目撃者をモウロク爺のたわ言と罵倒して灰色派の方々が激怒させ黙らせてしまいましたが、それを深く詫びて、丹念に教えていただいた多くの事実を発表しているだけです。灰色派の方々は飯田機等の破片の色が灰色だからと、根拠にされますが、これは墜落時の炎上による熱変化で変色してしまった場合が圧倒的に多いようです。その証拠に真珠湾で攻撃直前に落とした落下増槽が当地の博物館に幾つか保存されていますが、灰色ではありません。極々薄く灰色がかった白色です。
    実際に真珠湾へ行った零戦パイロットの方に写真を
    見ていただいたところ、その表面塗装色も青竹
    色の部分も若干色があせているようです。もちろんそれと機体の表面塗装色とは同じ色だったそうです。これが現存する破片としてはもっとも近い表面塗装色です。その写真が掲載できなくて残念です。
    皆さんは、ワニス塗りのイメージだけで重量アップと短絡的に考えられますが、一度フライフィッシング・バンブーロッド(竹竿)・オイルフィニシュでパソコン検索をかけて、その色と膜の薄さと塗装のし方を見てください。
    これが初期三菱零戦のニス仕上げと同じオイルフィニッシュです。それは新車の表面のワックスと同様の膜の薄さでツルツルテカテカです。当時はワックスが無かったので、三菱からの納品後、いわゆる複葉機時代からの有名な「海軍のニス仕上げ」を海軍基地で施したようです。これを塗ったため、白い表面塗装色の明度が
    落ちて、含有されていた緑色や青色部分の色相が
    強くなり、それを海軍基地で見た三菱航空機の
    零戦の塗装工が、引渡し時の機体の色と比べ、
    「なにやら緑っぽいような青っぽいような妙な色になっていた」との感想を残しています。塗料の中の含有量によって、青っぽい白色の機体や緑っぽい白色に見える機体があったようです。(堀越二郎は戦後2種類の塗料を三菱で調合したとも発言しています)なお、白色は正確には、パールグレイ・アイボリー・ベージュ・ミルク色とも呼べる様な色です。三菱の技師によると日米開戦直前には経済封鎖で欧米の塗料が輸入できず、国産塗料の質が悪く、かなりの色のばらつきがあり、1機たりとて同じ色に仕上がらなかったそうです。なお、真珠湾攻撃零戦の色は、前述の零戦パイロットの方に<三菱技師が保有いる断片の色と教えられ写したビルのワックスがかかった床の色の写真>を何も説明せずに見てもらったところ、「これが、まったくソックリです。」と言われました。

    お詫びと補足

      @オイルフィニシュだけでパソコン検索をかけて
       みてください
      Aどうも皆さんは、飴色のイメージが強すぎる
       ようですが、USAでは白っぽい機体に
       薄くわずかに褐色(飴色)がかっている
       のが真珠湾攻撃零戦のイメージです。
       渡辺利久氏も証言調査で、「機動部隊の
       零戦は透明の液が機体の上に塗られて
       いたと聞いた」と記録しています。
       何度も重ね塗りをすれば、だんだん
       飴色が濃くなり、やがて褐色からチョコレート
       色になります。物資の補給が途絶えた
       南方戦また線でこれらの色の零戦の
       目撃証言(USA側)やスケッチ等が
       残っています。 
      Bまた、1942年頃のラバウルの零戦スケッチとして
       鶯餅の色をもう少し薄くしたような色の
       零戦のスケッチが林唯一によって画かれて
       います。   

    零戦飴太郎

  16. ニス仕上げについては、
    「零戦(航空戦史シリーズ1)」堀越次郎 奥宮正武 共著 朝日ソノラマ社 
    昭和60年6月26日 
    の第77頁に以下の通り記載されています。

    <1号機の完成>
    九試単戦はこのような構想と経過によって、設計開始からわずかに十ヶ月の
    昭和十年一月に一号機が完成した。
    本機は自重が予定よりも軽くでき、全体の外形もスンナリしていて好まし
    かった。
    特に最も精魂を傾けた翼や胴体の表面が、それまでの機体とは雲泥の相違と
    言えるほどきれいだった。
    これは試作機としては初めての試みである沈頭鋲の不出来や外板の合わせ目
    の凹凸を埋めるために、表面に塗料を塗って磨きをかけたためでもあったが何としても上々の出来栄えだった。

       飴太郎 註:九試単戦は96艦戦の試作機です。
             実際は「塗料」をコーティング剤として使っただけでなく、
             パテで埋めて、その上から「塗料」を塗っていたそう
             です。この「塗料」はワニスだったそうです。 
             (戦前・戦中に零戦製造ラインで働いていた三菱技師の
              話より)
    ドルフィンスキン効果を得る、いわばステルス塗装にも匹敵する極秘塗装の戦前版だったのでは???

    真珠湾攻撃三菱零戦は白っぽい機体へ飴色コーティングを施していた結果、古い畳のような黄色にみえていたと、零戦二十番勝負に記載されている藤田い与蔵元少佐に直接お話を聞きました。太陽光線の強さによって黄色味は一日の間でもかなり変化したと推定されます。
    機体表面色と飴色コーティングの結果の機体外観色との関係は以下の通りです。
      @銀色塗装+飴色コーティング=金色外観色
        ただし、太陽光線の角度強さで一時的にそう見える。
      A白色ぽい塗装+飴色コーティング=黄色外観色
        かなり常時黄色に見える。
        ただし、太陽光線の角度強さで黄色の濃さが劇的に変化する。
      B白っぽいベージュ色塗装+飴色コーティング=鼠色
        かなり常時灰色に見える。
        ただし、太陽光線の角度強さで灰色の濃さがかなり変化する。
      C厚塗り飴色コーティング=褐色
        超厚塗りは占領軍のばら撒きチョコレートのような色になる。
     つまり飴色コーティングの中を通過して機体表面塗装で反射して逆方向を通り
     目に入る色が何色になるかを実験して把握しないと、まことしやかだが、
     実際は無かった色を、零戦の色として主張するようになります。
     たんに飴色をプラモデルに塗ったらそれは実機の外観色とはかなり異なり  
     ます。

    補足
     今回、初期零戦の色を調査して興味深いことがありました。それは色の
     呼び方の日本と米英のちがいです。
     日本人はグレイと聞くと、即、鼠色をイメージしますが、米英ではグレイは
     単に灰色もしくは鼠色だけではなく、日本人が灰色っぽい白色
     つまり純白以外の白もグレイとよぶことです。
     堀越次郎がライトブルーグレイと呼んでも、彼の色認識は戦前の欧米人の
     ペンキの色名称です。
     この点、注意が必要と思われます。
     それにしても、明灰白色(アッシュの明るい白色)とは、戦後の名訳ですね。 

    零戦飴太郎

  17. これが現存する開戦2年目に海軍省が政府系軍事雑誌社へ貸与した
    零戦の色付け画です。黄色は太陽光線の強さでかなり変化したようです。
    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070821120827.jpg

    これがUSAのホームペイジで見つけたものです。
    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070821130046.jpg

    真珠湾攻撃で戦闘に入る直前に捨てた燃料タンクです。写真が後に撮られたため少し変色しているそうです。(真珠湾攻撃に参加された零戦パイロット
    の方が、そう指摘されました。)
    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070822085014.jpg

    実際の、真珠湾攻撃に参加した零戦の表面は、色といいツヤといい、
    まったく以下の写真の赤枠部分と同じだったそうです。
    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070728193252.png

    また、12試艦(1号機または2号機)の色は、以下のとおりの黄色だった
    そうです。
    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070728190537.png

    それから、USA・英国の真珠湾攻撃機の記録イラストは以下のとおりです。
    零戦の白い塗装は、飴色コーティングが施されてない機体、99・97は
    零戦の塗装とほぼ同一の昭和13年の標準塗装の白い色の上に飴色コーティングが
    施されて黄色に見えたものです。零戦もかなりの機体に施されており、同様
    に黄色く見えていたようです。(蛇足ですがこの白い機体に炎上した際の高熱が伝わると黄色味を帯びた、汚い土色に変色します。)

    http://www.jirosoft.com/~zero/cgi-bin/img-box/img20070820061835.jpg


    零戦飴太郎

  18. 96戦の銀色の上にワニスという塗装から真珠湾攻撃の零戦21型の明灰白色の間に何か特殊事情があったのでしょうか。色の規格については陸海軍購買規格等様々な色規格がありましたが、戦時中統一されて「日本航空機規格 規格第8608 航空機用塗料色別標準」が昭和20年2月5日に出されたそうです。航空機用塗料を製造していたのは国策会社ではなく、たとえば防錆塗料は関西ペイントや日本特殊塗料など11社もやっています。商品名からすると全てジンクロ系です。川崎のサンドイエローもあったかもしれないし、中島、三菱、川西で濃緑黒色も微妙な違いがあったのかも知れないと思いはじめました。
    あらでも

  19. >18
    「ワニス」というと一般には油性塗料の透明塗料を指すのであって、軽金属製の機体に塗られるのは「軽金属用特殊塗料」です。
    九六艦戦で日本海軍は初めて全金属製の艦上機を国産化しますが、機体の外皮はいわゆる合わせ鈑というものになっておりまして、ジュラルミンの表面を別の金属の保護膜で覆われています。このため素材自体が耐蝕性を持っていて、基本的には無塗装でつかえるものです。しかし、洋上で使う機体であることから、海軍は新たに塗装についての基準を定め、無塗装銀色の「艦上機」についてはその上に「軽金属用特殊塗料」の透明塗料で塗粧することを標準とします。これは上記1で述べたクリア成分そのものなのでして、まったくな無色透明ではなくわずかな淡黄色を帯びています。
    基本的には零戦になって同じく「軽金属用特殊塗料」の「灰色」塗粧(この灰色は色の印象を指すのではなくて塗料の色名です)が行われるようになると、不要になるものです。
    そしてまた、真珠湾作戦の参加機などでなくとも、塗料の黄変は起こっていることなのです。

    航空機用塗料の製造は、国策によって統制されており、例えば日本特殊塗料は軽金属用特殊塗料を作れますが、関西ペイントは迷彩用塗料しか作れません。
    機体の基本塗粧に使う軽金属用特殊塗料を製造することができたメーカーはわずかに6社だけです。この6社に対して、陸海軍からそれぞれと色調についての「規格」が送られ、これにしたがって調色されていました。色調は「規格」により統制されていたわけです。したがって、仮にわずかな色調差があったとしても、それは中島、三菱、川西といった機体メーカーごとに存在するものではありません。

    当時の日本機では、ジンクロ系の塗料は軽金属には使われていません。防錆塗料とは「鉄鋼防銹塗料」といわれるもので、「鉄鋼防銹塗料」は黒色と赤褐色の2種のみです。
    川崎のサンドイエローは・・・・・・私は存在しなかったと考えます。

    >17
    高熱を帯びなくとも当時の日本機用塗料は対候性に問題があるため、暴露部では変性して黄変してゆきます。火災を起こすことなく胴着したり、修理不能で遺棄された機体から採取された残骸片も、現存するものはほとんどが褐色に変化しています。
    これは必ずしも日本機に限らないことえであり、現存するドイツのMe110の胴体外面塗装なども相当に黄変しています。

    「灰色派」「飴色派」などという二大分にそもそも意味がなく、実際には規格上「灰色」として調色された塗料が経時変化によって黄褐色に変わってゆく連続的な変化があるだけなのです。この点、相当数の零戦の残骸をその目で検分してこられたケンジさんのおっしゃるとおりです。



  20. わが国の航空機用塗料史というサイトをみました。昭和19年に8000tの割り当てでうち日本特殊塗料は2000tだそうです。軍に納入されてから各航空機メーカーに送られたとは考えにくく軍の帳合で距離的、経営グループ的に近い塗料会社から直送されたと考える方が自然とおもいますがいかがでしょう。色見本等は現在のような分析法が無い時代、人の眼で比較していましたからメーカーが違えば色が違うのは当たり前です。リンクの仕方がわからないのですみません。
    あらでも

  21. おっしゃるサイトに書かれてあることは、情報源としている資料も含めて大体わかります。
    機体メーカーの各工場ごとにそれぞれ個別に塗料メーカーから入荷していたという関係はその通りです。
    しかし、それは1対1の関係などではまったくなく、例えば三菱名古屋の場合、軽金属用特殊塗料に限っても少なくとも3社、さらに三菱水島は別の会社から軽金属用特殊塗料の納入を受けています。
    そもそも海軍機の機体メーカーとして10以上の廠社があってさらにその分工場があり、そこに塗料メーカーが6社しかありません。そこに、機体工場1に対して多数メーカーからの塗料納入があるという関係です。
    どの機体メーカーの機体だから何色、といえるものではないのです。


  22. 受け入れるのは航空機メーカーですし、大事な原本の色見本を使って検査するとも思えません。あらかじめ塗料メーカーと色の範囲を決めた金属板に塗ったカラーチップを交換して受け入れたとは考えられないでしょうか。その段階で航空機メーカーの個性が出る可能性はあります。統制といっても軍は安定供給を望み、塗料メーカーは軍需の独占をねらったカルテルだと思うのですが。高度な技術を必要としないし、欧米に較べると気候がきびしい地域で運用されたとはいえ剥落がひどすぎます。
    あらでも

  23. 塗料の色見本自体は、「規格」として一定数が作られ、海軍から各塗料メーカーに配布されています。機体のどこに何色を塗るかは、海軍の方で標準化されており、こうした箇所には規格上の色番号何番で塗るように、と指定されています。色番号と色調の関係が規格上成立していれば、以降は機体メーカー側ではカラーチップなど不要になります。海軍サイドで確立された製品を、機体メーカーは色番号で指定して使用するわけです。
    工業規格とはどのようなものなのかお調べいただければと思います。

    国家総動員法に基づく航空機製造事業法というのは、民間会社が悠々とうまみを追求できるような雰囲気のものではありません。
    各生産物ごとにメーカー数を規制するべく強制的にその品種について廃業させらたメーカーなども存在し、中には愛知時計電機の化学部門なども含まれています。愛知は自社製の塗料で機体を塗粧することを望んでいたのですが、これに関して認可が下りず、愛知のこの分野への進出は中止させられてしまっています。
    こうしたこととは反対に、規格と製品の品質の合致ができるとして陸海軍購買名簿に載せる資格ありと認可された塗料メーカーはわずか6社しか残されなかったわけで、しかし、戦時中に要求された生産量は戦前の予想を何桁も上回った量であったことから、これら各社は生産量増強に四苦八苦することになります。
    これは機体メーカーの話ですが、中島飛行機などは「このまま軍の要望どおりに生産ラインを増やし続けたら、停戦になったら、例えわが国が勝利したとしても会社が立ち行かなくなる」と中島知久平自身が憂慮しています。どうようなことが塗料メーカーでもおこっていたのです。
    強制的に会社を拡大させられたり、強制的に生産を禁止されたりという、まさに「統制」が行われていたのです。

    戦時半ば以降は軍需省が創設されて、航空機製造用の物資の統制を始めますが、これ以降では、機体メーカーと塗料メーカーの結びつきはいったん解体され、それ以前とは異なる塗料メーカーの製品を納入させられるようになった機体メーカーも存在します。このメーカーでは、さらにまた、空襲激化により地域的航空機自給体制を確立することが軍需省から命令され、また別の塗料メーカーからの納入になる、という変遷を辿っています。

    戦争末期の機体で塗料の剥離が著しいのは、とりもなおさず、正規の6社製「軽金属用特殊塗料」の生産が不足したことから、品質を低下させたこともあるでしょうし、あるいは、これとは別の品質の(組成から異なります)迷彩用塗料を別に設け、軽金属への食いつきの悪い迷彩塗料を機体に塗るようになったからです。迷彩用塗料とは、本来、使用後に剥離させることが出来ることが規格上求められていた塗料なのです。
    陸軍機などの場合、迷彩塗料使用機ではその旨が機体表面にステンシルされています。



  24. それから・・・・・・

    カラーチップは金属板には塗られていません。
    アセテートと思われる透明素材のシートに塗られています。


  25. 余談になりますが・・・
    ケンジさんと先日見た程度の良い零戦胴体燃料タンクですが、半面金色(黄ばんでその様にも見える)反対面は銀色と見事に違いがありました。
    勿論元は裏表銀色ですから、まさに黄変を表した良い例と言えました。

    その他灰色の残骸でも見られる傾向ですし、当時のカラー写真でも灰色面がかなり黄ばんでいるものも見受けられます。

    話題としてはつまらなくなるかもしれませんが、結局飴色とは変色と考るのが妥当で、状態によって当時から既に起こりえたものであり、現在の現物でも程度の違いによる状態推移の推測によって変色であると判断できると思います。
    A6M232

  26. <<真珠湾攻撃に行った零戦21型の塗装について>>
     ああだったろう、こうだったのだろう、のウンチクはさておいて、
     前述の戦前から戦中にかけて三菱の零戦製造ラインで
     働いておられた技師の息子さんから聞いた話を皆様に
     以下お伝えいたします。

     英米の経済封鎖を受ける前は、欧米の塗料を入手して
     いたので塗料の質は比較的均質だったが、封鎖後は
     国産塗料を使用したので、そのバラつきはひどく、
     同じロットの塗料を使用しても、1機たりとて同じ色に
     仕上がらなかった。ひどい場合は、下地の赤が、
     浮かび上がり、ピンク色になったりもした。今の塗料
     製造技術レベルからすれば、想像だにできないほどの
     低い塗料製造の技術レベルであった。    
    零戦飴太郎

  27. >零戦飴太郎さん
    ここはあなたの研究発表の場ではないのです。
    質問に対する回答をお願い致します。

    それ以外の各位もお願い致します。
    P-kun

  28. すでに長文化に対するお叱りも入っていることですし、私としても早々に切り上げたいのですが、事実関係として誤ったことをこの場に放置もできませんので、最後にひとつだけ。

    >26
    >英米の経済封鎖を受ける前は、欧米の塗料を入手していたので

    陸海軍機の塗装に用いられる塗料そのものは基本的にすべて国産です。
    陸軍購買名簿、海軍購買名簿にその物品に関して記載され、認可された業者でなければ、製造・軍に納入することができません。
    国産でなかった部分があるのは、その塗料の原材料の一部です。

    ・軍が工業規格を定めた軍需物資の生産・納入システム。
    ・当時の塗料工業界の実態。
    ・なにより「塗料」そのものがいったいどのようなものなのか。

    これらに関する基礎知識をある程度満たされた上で聴き取り調査を行われなければ、結果的により多くの誤解を生んでしまう危険を孕んでいます。

    「ワニス」という言葉ひとつとっても、その言葉の意味するところを正確に掴んでおられたのなら、もう少し慎重な聴き取りになったはず、と思えます。


  29. 参考文献学もけっこうですが、何ゆえ当事者や
    生き証人がおられるのに、その方達に聞こうと
    されないのでしょうか?
    物的証拠と証言を組みあわせないと真実には
    いたらないと思いますが。
    これ以上書くと、ののしりあいの
    飴色論争の再現になるので、馬鹿らしいので
    やめます。信じるものは救われるですかね。
    ここで有名な川柳を一つ。
    <講釈師、見てきたような嘘を言い。>
    あなたも私もそうかもしれませんね〜〜。
    では、これにて失礼いたします。

    零戦飴太郎

  30. 当事者への聴き取りもある程度は行ってますよ。
    その上でのことです。


  31. なお、旧零戦搭乗員会、零戦の会では、そうした「模型に塗る零戦の色は何色がいいか」というような類の質問でご高齢の元搭乗員の方々を悩ませることないよう、その手のご質問はお控えいただきたい、という方針を採っています。
    これはよく理解できるところですので、この欄をご覧になる皆さんにもどうかお心に留めていただければ、と思います。



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