124 瑞鶴戦闘機隊・零戦22型・機番「AI-1-108」についてお教え下さい。

初めて質問させていただきます。くだらない質問ですが、皆様よろしくお願い致します。
先日、濃緑色塗装の零戦の金属模型を入手しました。
パッケージには「Type22 Zuikaku AG Truk Island 1944 」と書かれています。
一水兵だった叔父がトラック島で戦死している事もあり、
「叔父もこの零戦の実機をトラック島で眺めた事があったかも」と想像すると、
この機体の搭乗員の方と機体自体のその後に非常に興味が湧いてしまいました。
模型の箱の説明やネット、手持ちの零戦関係の書籍を調べましたが、
この機体については何も情報を得られませんでした。
どなたか昭和18年トラック島の瑞鶴戦闘機隊所属、機番「AI-1-108」の
零戦22型について、何かご存知の方はおられませんでしょうか。
本当にくだらない質問ですが、どうぞよろしくお願い致します。
EF-7

  1.  回答が付かないようなので、呼び水程度に。
     一般に、母艦航空隊は昭和18年後半まで零戦二一型を使い続けた(昭和17年後半の一時期、零戦三二型が配備されていましたが)後に零戦五二型に機種転換しており、基地航空隊専用機的な扱いを受けていた零戦二二型は、母艦航空隊には配備されなかったとされています。
     瑞鶴戦闘機隊は昭和18年11月のろ号作戦から翌年2月にかけてトラックとラバウルを行ったり来たりしています。
     よって、瑞鶴戦闘機隊がトラックまたはラバウルの基地航空隊から零戦二二型を分けて貰い、運用した可能性はあります。
     しかし、どちらかというと基地航空隊の助っ人として働いていた母艦航空隊が基地航空隊から機材を融通してもらうという状況は考えにくいのではないかと思います。
    T216

  2. 最近気がついたのですが、どうも18年夏以降『A1-1-』という区別字システムは廃止され、別の付番システムに置き換わってるようですね。


  3. 航空情報の別冊「海軍戦闘機隊」の中にAI−108の図は翔鶴戦闘隊として載っています。尾翼下はグレー塗り上げで機番は濃緑色地に黒です。「ろ」号作戦当時の集合写真も載っています。瑞鶴の項を見ると18年11月頃の図がありAII−125の機番の22型が載っています。塗装はいわゆる三菱様式で機番は白です。18年初めのブイン基地での写真がありますが、胴体に横V白帯を巻いているかっこいいものです。機番は白縁つきの黒か赤の数字のみで188です。翔鶴と瑞鶴は行動をともにしていてそれぞれからの船体を撮った写真がのっています。AII−108の機番の機体の情報は得られませんでした。
    あらでも

  4. せっかくのご紹介ですが「AI−108」「AII−125」などの推定図は、考証が古いもので、現在では否定的に見られています。
    「胴体に横V白帯」は五八二空の機体です。


  5. ハイホンが入るのが正しいのですか。時期が違うとはいえ赤城、加賀と表記が同じというのは変ですよね。582空は第2航空隊戦闘機隊として出ていました。この図も間違いかもしれませんが、横V字帯は無くT3-114の機番の図が載っていました。
    あらもで

  6. 瑞鶴は、
     17年11月まで      『E−II』
     17年12月〜18年8月中旬 『A-1-1-』
     18年8月中旬以降    『(アラビア数字3桁)-』
    です。


  7. 秋本実氏、下采昇氏の考証とありましたが、写真がベースではなかったのですね。いろいろありがとうございました。
    あらでも

  8. >7
    今から40年近く前の本ですし、まだ情報の揃わないその時期に網羅的なことをされようとしていた意欲をこそ評価されるべきものだと思います。


  9. すみません。もうひとつだけお願いいたします。瑞鳳戦闘機隊の最後の分隊長(昭和18年6月から8月と記載)に中川健二大尉という人がいるのですが、このあと瑞鶴の飛行隊長に赴任しているのです。(18年11月から12月)この中川大尉の指揮下ラバウルに瑞鶴派遣隊として残留し19年1月末まで奮戦したとでています。その後19年10月下旬ころの話として平成5年12月15日発行の「丸」別冊「撃墜王と空戦」に11機撃墜といわれる岩井勉元海軍中尉の戦記の中に登場し、岩井飛曹長(当時)の空戦状況とその中川健二大尉の最後が記録されています。日本海軍航空機隊の中の瑞鳳の項の零戦22型の図の機番がAIII−127とでているのですが、これは関係ないですね。
    あらでも

  10. 赤城、加賀のA機番が残った理由を考えたのですが、赤城の最後の分隊長に白根大尉(後に中佐)、指宿正信大尉という方がいて白根大尉が瑞鶴の分隊長に、指宿大尉が翔鶴の分隊長に赴任し、また加賀の最後の分隊長佐藤正夫大尉が瑞鳳の飛行隊長に赴任しています。これがなにか関係していると思うのですが、いかがでしょう。
    あらでも

  11. スレ主です。
    皆様、レスをありがとうございます。
    機番の変遷など、非常に興味深く読ませていただき、大変勉強になりました。
    海外の模型メーカーだからなのか、考証に誤りがあったのですね。
    その点は残念ですが、この模型が零戦に興味を持つきっかけとなりましたし、
    同時に叔父の墓参りにも行かなければと思いました。
    私の素人丸出しの質問に、丁寧なお答えをいただき非常に嬉しく思います。
    本当にありがとうございます。
    EF-7

  12. スレ主さんの纏めのあとになんですが

    >9
    瑞鳳飛行機隊は「AIII−」を使用したことは一度もないはずです。

    >10
    昭和17年7月14日戦時編制改訂後の新一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)は、同年10〜11月(おそらく南太平洋海戦終了後の内地帰投時)頃までは旧五航戦時代の「EI−」「EII−」「EIII−」を使用しています。
    なので、旧一航戦の赤城、加賀の分隊長が新一航戦に転勤しても、「AI−」「AII−」は残りません。
    なお、18年夏頃まで、一航戦は「A1-1-」「A1-2-」「A1-3-」となる(二航戦は「A2-1-」)ことは、6の片さんの解説どおりです。
    平山

  13. >10
    隊識別符号は、各実施部隊単位で任意につけられる自由のあるものではなく、連合艦隊全体としてのシステムです。連合艦隊飛行機識別規定により、連合艦隊全体で一斉改訂になります。

    17年7月改訂まではそれ以前と同じシステムの「アルファベット+ローマ数字」で各隊に符号が割り振られていますが、17年12月改訂からは「アルファベット+アラビヤ数字」に変わります。
    二五一空「U1−」、二〇四空「T2−」などと同列に近い感じで一航戦「A1−」、二航戦「A2−」となり、その下に枝番が入って、一航戦瑞鶴「A1−1−」、一航戦翔鶴「A1−2−」、一航戦瑞鳳「A1−3−」、二航戦飛鷹「A2−1−」、二航戦隼鷹「A2−2−」となっているのです。
    この場合、「A」は第三艦隊に与えられたものです。


  14. といいつつ、16〜17年の頃も機体上には実態として、赤城「A1−」、飛龍「B1−」、龍驤「D1−」、隼鷹「D11-」といった表記になってます。ややこしいです。



  15. ありがとうございます。長い機番号の表記がどうも納得がいかなかったもので申し訳ありません。世傑の99艦爆のカラーページに隼鷹搭載の18年の「い」号作戦時に撮影された2−1−202(ラバウル)の九九艦爆22型を基にしたカラー図があり、アルファベットは省略されています。戦闘機も同じとは限りませんが、納得いたしました。ブインの横V字の零戦22型ですが188とか183とか機番が読めますが、88番機ということですよね。写真の中には2重横V字も含めて15機くらいは写っています。元の質問からはずれているのでお答えくださらなくてもけっこうですが、気になりまして。
    あらでも

  16. 零戦の場合でもこの時期の瑞鶴機の写真はあります。
    例えば、これは18年2月のもので、搭乗員氏名まで判っています。
    http://www.pacificwrecks.com/aircraft/a6m2/6544/tail.html

    五八二空は、前身である二空の零戦の頃から一貫して楔形の識別帯をつけています。
    (ちょっと見づらい写真ですが、世傑等で良く見かけるものです)
    http://www.warbirdphotographs.com/NavyBWZeros/Zero-A6M3-M32-194.jpg
    在ラバウルの零戦に迷彩が施されたい号作戦の頃は、隊識別符号が消されています。
    ちなみに瑞鶴の零戦もい号作戦で初めて迷彩されています。


  17. うるさくて申し訳ありません。楔型マークの零戦なんですが、偶然1冊だけ持っていた1992年の10月号の「丸」本誌の中にエースだった谷水竹雄元飛曹長の長い戦記があり、昭和18年2日第1次連合攻撃の編成、零戦65機(瑞鶴25機、翔鶴24機、瑞鳳16機)続く敵襲でB−25、Bー26、120機P−38、120機を迎撃、このときの編成が艦隊戦闘機58機(瑞鶴、21機、翔鶴、25機、瑞鳳、12機)26航戦(201空、204空、253空)74機が共同で迎撃している記事があります。このページの写真の零戦群が楔マークを付けています。写真の説明には「全力を上げてラバウルに展開した一航艦の艦上機群、・・・・」とあります。もちろん有名な戦闘だと思うので百も承知でしょうが、この時期の艦隊戦闘機はみんな楔マークを付けていたように思えます。この写真は後方から撮っていますがグラビヤでないので機番は読めません、これだけ多数の零戦ならば機番183、188は納得できます。ながなが申し訳ありませんでした。
    あらでも

  18. 呼称番号は、必ずしも各隊ごとに「101」から始まる連番でつけられているわけではありません。例えば、二〇四空で『T2-1129』という機体の写真がありますが、だからといってこの隊が129機もの艦戦を保有していたわけではありません。

    ご指摘の雑誌誌面については、1992年頃ってまだ古い通説に支配された編集がされてたんだなあ、という感じで私は受け止めました。





  19. い号作戦に派遣直前のトラック島で撮られた瑞鳳の零戦、九七艦攻、いずれも『A1-3-』から始まる呼称番号が確認できるものですが、胴体に帯ありません。どうも、
    い号作戦中にブインで撮影された隼鷹の零戦『2-1-128』号、帯なしです。
    基本的に、この頃の第三艦隊艦上機は胴体の帯をつけないのが一般的になっているようですが、全廃されていたわけではありません。
    い号作戦期の隼鷹九九艦爆二二型『2-1-201』号は以前と同じ赤帯2本を巻いていますし、18年6月に内地で撮られた翔鶴九九艦爆二二型『AI-2-238』号は白帯2本をつけています。もう少しあとの時期と思える隼鷹九九艦爆でも赤帯2本があるようです。
    艦戦の例が少ないじゃないか、といわれればそのとおりなのですが、このように空母部隊の胴体帯のシステムは17年以前と同じものが維持されていることはわかります。


  20. >17の文面を読み返していたら、昭和18年11月2日のうち11月が抜けていました。「ろ号」作戦が発令されトラックに待機中のわが第三艦隊第一航空戦隊「瑞鶴」「翔鶴」「瑞鳳」の搭載機約200機がラバウルへ増援部隊として発令、11月1日飛行機隊のみで進出することになった。手記には「ろ号作戦」と書かれています。航空情報の「日本海軍戦闘機隊」では582空の戦闘機隊は18年8月1日に廃止、艦爆のみの航空隊に転じ生き残った搭乗員の一部は本土、多くは201空、204空に編入された。とあります。写真が間違っているのかわかりませんが、発進直前の緊迫感がつたわってきます。15機は確実に写っておりフレーム外にもまだありそうな感じです。
    あらでも

  21. ろ号作戦の頃には、ファクトリー・フィニッシュで上面暗緑色塗粧された零戦に置き換わっています。現地で応急的に迷彩を吹き付けられた機体は18年前半のものです。


  22.  17.の あらでもさんご参照の谷水さんの戦記に使われている写真は、「闘う零戦」(2001.7.15渡辺洋二編)P56下の写真の同一写真です。
     キャプションによると、「『ろ』号作戦時の撮影といわれる」となっています。キャプションによる他の情報は、場所は東飛行場、型は22型です。

     しかし、この同じ写真、1990年頃(例えば文林堂「世界の有名戦闘機No.2零式艦上戦闘機」P102〜103)には、『い』号作戦時の18年4月7日ブイン基地(行動調書ではバラレ発進)とのキャプションがあり、一連の写真の中に滑走中の「−188」号機、列線中の「−183」号機があります。もちろん、ハイフォンの前の文字は防諜上修正されていることは言うまでもありません。ちなみに、「機番号は白フチ付き赤で記入」とされています。

     当然、渡辺洋二さんの方が考証が10年新しいのですが、この写真、本当に、『ろ』号作戦時の撮影なんでしょうか?
    平山

  23. >22
    21で述べたとおりです。
    小さい印刷だと不鮮明でわからないかもしれませんが、各機とも風防枠や空中線支柱が灰色のままとなっていて、18年2月以前に工場完成された機体ばかりとわかります。ろ号の頃は、例えば一航戦などは18年8、9月製の機体を中心に使っています。
    「『ろ』号作戦時の撮影といわれる」というのは、かつてそのようにいわれていたことは間違いないわけで、断定的でない分だけいくらか良心的なキャプションのようにも思われます。


  24. ありがとうございます。第582空は17年10月までQ-を使い、18年6月からT3−ですから、その間の塗装ですか。昭和18年2月頃21機とか14機とか「い号」作戦で述べ58機、山本長官遭難時は16機という戦力で戦闘に参加しているので、その時従軍カメラマンに撮られた写真かもしれませんね。機体番号は写真修正ですか。T−3と入れてもいいのか考えどこですね。
    あらでも

  25. 二空/五八二空機については、前にも書きましたとおり、17年11月までが『Q-』。
    その後、ちょっと別な方式を採用した時期があって、おそらく18年1月か2月頃に『T3-』に変わったはずです。この頃、五八二空と同じ航空戦隊に属する二〇四空の零戦が『T2-』、五八二空の九九艦爆が『T3-』を使っています。
    その後、い号作戦の時期には各航空隊とも、写真修正ではなく実機の上で隊識別符号を消し、『183』などの呼称番号になっています。その前に『T3-』はつきません。これは『U1-』を消した二五一空機などと同様です。
    その後は『1-151』『2-172』『6-171』などの南東方面特有のナンバリングシステムに変わります。
    ですから、『T3-』が零戦の尾翼に書かれた時期があったとしたら、18年はじめの短期間だったはずです。ただ、写真ではなかなか確認できません。






  26. いろいろどうもありがとうございます。
    あらでも

  27. >22
    ご指摘を受けて確認しなおしてみましたが、4月7日に報道のカメラがいたのはブナカナウとブインだったのではないかと思います。

    山本長官がブナカナウで見送っている迷彩二一型は、隼鷹か飛鷹の機体のはずです。

    五八二空は戦闘行動調書で見てもブイン発進なのであり、「バラレ空中発進」とあるのは、バラレを発進した瑞鶴艦戦隊その他と空中集合しているのだと思います。
    ということで、五八二空と同じ基地で撮影されたと思われる胴体帯なしの迷彩二一型は瑞鳳、飛鷹の可能性が高いと思います。


  28. >27
    ありがとうございました。文林堂「世界の有名戦闘機No.2零式艦上戦闘機」掲載写真のキャプションでは瑞鶴戦闘機隊となってましたので、それに引っ張られて、「瑞鶴ならバラレ発進のはずなのになあ」と思い、あのように書き込んでしまいました。
    あらでもさんが納得されたようなので、書き込みませんでしたが、その後蔵書を当たってみて、平成8年11月の丸エキストラ戦史と旅1掲載の写真では、4月7日のブインで、手前の楔型帯の列線は五八二空の22型との解説がありました。背後の密林の存在から、ブナカナウではなく、ブインが正解だろうと思っております。ちなみに、中央の帯二本は飛行隊長進藤大尉乗機としています。
    また、滑走路向こう側の発進中の零戦群は21型の別部隊とされています。ブインなら、おそらく飛鷹隊でしょうね。
    平山

  29. もし4月7日の撮影が正しければ(正しそうなのですが)、この日は進藤大尉は参加していませんので、二本帯は別の中尉の機体ということになりそうです。

    飛鷹隊はブナカナウ発ブインで中継後再発進です。
    瑞鳳隊は元々ブインを発進基地としてましので、どちらかというと瑞鳳の可能性が高いのかもしれません。


  30. 4月7日の五八二空編制が1中隊長S中尉、2中隊長N中尉、3中隊長T飛曹長であることを知りつつ、本に書いてあることを無批判でたれ流してしまいました。Ans.Qがドキュメントとして保存されることを考慮すれば、もう少し慎重な書き込みが必要であったと反省しております。
    瑞鳳隊の発進基地は、行動調書によればバラレ、岩井さんの回想でも、6日ラバウルより「一旦ブインに着陸したのち、改めてバラレに移るよう指示された」とありますので、ソースは何かなと思っています。
    平山

  31. 行動調書では、瑞鳳は発進基地ブインですね。
    二航戦は隼鷹が当日ブナカナウからバラレへ空輸後発進、飛鷹がブナカナウ
    からブインへ空輸後発進となっています。
    瑞鶴隊もバラレにいますし、いや、バラレってそんなに入りきれるのかな、と思ったものですから。



  32. また、やってしまったようです。
    アジ歴に行動調書が掲載される前に、岩井さんの本に掲載の編成表を元に自分の記録を纏めていましたので、発進基地がバラレになっていました。
    ご指摘のとおり、行動調書はブインでした。アジ歴さまさまです。
    ありがとうございました。
    平山

  33. ああ、すみません。
    ブインでの撮影とされている写真の五八二空でない方の列線はやはり飛鷹のようですね。
    飛鷹の呼称番号つけてる機体がありました。
    網目状に暗緑色を吹いてるのが飛鷹、滑走路を挟んでその向かいにいるまだら上迷彩の零戦が瑞鳳のようですね、どうやら。



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