139 紫電が開発された背景なのですが、次の2つの内どちらでしょうか。

1. 雷電の失敗に備えるという海軍の明確な意図の下に開発
2. とにかく、川西に戦闘機開発の実績を積ませるという方策の下に開発

また、零戦の後継機が事実上、紫電改になってしまったことについて、三菱はどのように思っていたのでしょうか。
塚田

  1. 昭和16年12月に川西が次にどのような機種を開発するか検討した際に当時生産されていたのは九七式飛行艇のみで試作中の十三試大艇と十五試水戦は大量配備の予定がなかったため川西が経営難に陥る可能性があったため、十三試大艇を陸上機化した大型爆撃機案が挙がったものの十五試水戦を陸上機化した方が簡単に高性能機に仕上げられるため海軍に陸上機化計画を提出しました。
    十五試水戦が完成していないのと川西の陸上機開発が薄いことから反対もあったものの17年4月15日に正式に試作が指示されました。


    凡人13号

  2. 川西に高速水戦を試作させるという方針は昭和9年頃には既に存在しており、利用できる発動機が無いことや、技術上の困難からあくまでも将来方針として持ち越されて来たという経緯があります。これが実際に試作開始となり、ある程度の目途が立って来た時点で、海軍航空本部内にこの機種の陸戦転用が検討され始め、十四試局地戦闘機よりも高速で重兵装の陸上戦闘機として試作計画が生まれます。
    広く伝えられる川西社内での動きとは別に、最も重要な海軍部内での紫電をめぐる動きはこのようなものです。雷電のスペックが既に不十分であることは昭和16年秋頃には認識され始め、年明けには三菱側の社内資料にも一号局地戦闘機との比較データが見られるようになります。まさに「雷電の代わり」です。海軍部内での一号局地戦闘機の検討の跡は少なくとも昭和16年晩秋には確認できます。


    三菱内部での零戦後継機問題については、航空本部側が指示した三菱での零戦生産中止、雷電への全面切り替えという計画が突如撤回され、再び増産が指示されたことに対する反発の方が大きいようです。
    紫電改の生産計画は当初、一式陸上攻撃機の生産ラインがあった新しい水島工場で生産を紫電改艦上機型に切り替えるという計画でしたから、設計側は無念ではあっても、烈風と零戦の量産には直接の影響は少ない計画です。
    紫電改の全面的な量産が指示された昭和20年初頭においてはすでに空襲で主要工場が被災し始めた混乱期ですから不満も何もない状況だとも言えます。

    BUN

  3. 三菱の社内資料曰く、横空が軍需省に提出した紫電改有利とすると雷電の比較資料について、「われわれとしてはこの意見を全面的に受け入れることはできないが、参考のためこの資料をここに掲げておく」(原文文語調を現代語訳)。
    「全面的に」という言葉に、反面受け入れざるを得ない部分もある、と読んでしまうのは穿ち過ぎでしょうか。

    三菱にとってはこのような事態は初めてではありません。
    大正10年以来、艦上機は全面的に三菱が製作を行うことになっていた分野でしたが、大正15年に改めて行われた艦上戦闘機競争試作で中島に負け、唯一残された艦上攻撃機は「三菱の八九式は欠陥機」と否定されてこれも中島に奪われることとなり、昭和7年度三か年計画でようやく陸攻と単戦に芽が出たという経緯を辿ってきています。
    それまでもまた磐石であったわけでもないのです。



  4. 早速のご回答の程、感謝致します。

    雷電のカウンターパートである二式戦もどちらかと言えば失敗だったにも関わらず、雷電に比べれば曲がりなりにも使える戦闘機だったこと、さらにその二式戦に素早く見切りをつけて、後継の4式戦の大量量産を行ってフィリピン戦への投入を実現できたことなど、海軍と陸軍の開発・装備行政の差を感じます。また、4式戦に当たる雷電後継機を三菱が開発しなかった(できなかった)のも奇異に感じます。烈風はその次でしょうから。
    塚田

  5. 雷電も可哀相な機体ですね。爆撃機相手の迎撃任務を旨とした機体でありながら、やれアシが短いの視界が悪いの着速が速いのと的外れなクレームをつけられています。

    米軍からは「最も警戒すべき迎撃機のひとつ」とさえ言われた雷電ですが、当時の海軍や搭乗員からの評価は低かったというのは皮肉です。

    皆様の回答を見ていて意外に思ったのですが、当時の海軍は雷電と紫電系列を同列に比較して評価していたのですか? それぞれ用途の違う機体では……?
    Mの社員

  6. 陸軍二式戦は13年1月試作指示、雷電は14年9月試作内示、15年4月計画要求書発布ですから、内容的には実質半世代違っています。実際二式戦はそれほど使える戦闘機であったわけでもなく、また内容的に古い機体であったことから、対米戦勃発に際していち早く四式戦へ更新されていったことになります。
    雷電の後継機は十七試局戦/閃電なのでして、対爆撃機用に特化させるには海軍としてはこれくらいの内容を求めていたわけです。そして、それは空技廠が引き取ることで震電に移行してゆくのですが、最終的には秋水となって三菱で開発されています。
    零戦・紫電改と閃電・震電・秋水を見比べれば、雷電はどちらかというと前者のグループに含めざるを得ない機体であることは理解できるのではないかと思います。しかも要求よりも完成機の速度が遅かったわけですから、なおさら対戦闘機戦闘を突破した上で敵爆撃機に向かうことができる能力を強く求められることになってしまったのです。


  7. 一方で、二式戦に対する四式戦の立場に近いのは、雷電の場合紫電です。
    この機種の開発をなぜ三菱が行わなかったかといえば、それは試製能力の問題です。
    海軍が定めていた試製能力標準によれば、三菱は「中型機1、小型機2」の同時試製能力を持つことを義務づけられており、これにしたがって第一から第三の三つの設計課を用意していました。
    これに従って、
     第一設計課=十六試陸攻(泰山)
     第二設計課=十七試艦戦(烈風)
     第三設計課=十七試局戦(閃電)
    というどれも重点機種を各課が受け持たされており、さらに一式陸攻と零戦の性能向上型の設計が割り込まされていたのですから、それ以上何かを付け加えるゆとりはなかったのです。
    のちに零戦五二丙型、五四型などを設計する必要が生じたとき、第三設計課から閃電を取り上げてここにやらせるという措置が採られています。



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