266 大戦末期に日本はドイツに倣って、橘花や火龍等のジェット機を開発しましたが、これらは全て双発機ですよね? 何故、日本陸海軍は単発型のジェット機を自前で開発しようとしなかったのでしょう? 橘花の様な使い捨ての体当たり機に貴重なエンジンを二基も勿体無かったのでは... と思えるのですが
うめ

  1.  単純に推力のあるエンジンが作れなかっただけでは?
    SUDO

  2. 一から機体もエンジンも設計するには時間が無かったのでは?

    それと単純なコスト計算ではジェットエンジンのほうが安く、部品数も少なく、製造工程も少なかったらしい。
    SC

  3. 火龍搭載予定のネ130の推力は908kgですね。
    橘花のネ20でその半分です。

    方や史上最初の単発ジェット戦闘機であるデハビランド・バンパイアのゴブリン2で1410kgです。
    P-80のJ33-A-35で、約2449kgの推力です。
    以上のことから推して知るべしでしょう。

    単発ですむようなエンジンが最初からあるのなら、機体はそれにあわせて設計するだけの話です。
    ただ単に、敵に勝つには双発にしなけりゃならんエンジンしかなかったという状況があっただけの話でしょう。
    P-kun

  4. 便乗質問でスイマセン。
    橘花って使い捨ての体当たり機だったのですか?機体の構造にそれらしい特徴が、全く見受けられませんが。
    PANZER

  5. もともとMe163(三菱)とMe262(川崎)の国産化計画があります。
    橘花はそれとは別に「興国2号兵器」=体当り専用の簡易攻撃機として研究され始めたたものですが、
    19年秋にMe262の国産化計画が「キ201(火龍)」として中島飛行機に振り替えられて以降、橘花はMe262的外見を持つようになって来ています。
    参考とされたのがMe262なので、外観から受ける印象が良く似ているのですが、当初は4発形式さえ検討された程で、様々な試案を経ています。

    BUN

  6. こんにちは。蛇足かと思いますが、付け加えさせていただきます。
    現代人の目で見れば「勿体無く」思えるのですが、
    当時のジェットエンジンは耐久時間が10時間そこそこで限りなく使い捨てに近い代物でしたし、装備する機体もレシプロと変わらない性能ですし松根油混合の燃料でも動くという特長もありますので、当時の軍上層部が特攻機用エンジンとしての価値しか見えなかったのも無理からぬことでしょう。
    桜花四三型は同じエンジンの単発ですね。
    超音速複葉機

  7. 興国兵器の発案時にはTR10系のジェット特攻機である興国2号兵器は高速を発揮する重要目標用の高級機で、主体は後のキ115「剣」のような簡易レシプロ特攻機計画だった興国1号兵器となっています。これが実現しなかったので国産ジェット=特攻用という印象がありますが、ジェットエンジンは短寿命だから体当り専用機に用途が無かったのではなく、現用機の特攻改造機や簡易特攻機よりも高速であり得るとの判断から採用されたという側面があります。

    そのために19年末に興国2号兵器が「橘花」として計画要求交付された時点で、橘花の用途は反跳爆撃用とされ、通常攻撃にも適用できる仕様が求められています。さらにネ20への換装が決定した「橘花改」では性能向上を見込んで、偵察機型と戦闘機型の研究が開始されています。

    もともとドイツからの技術資料を得て試作が開始された日本のジェットエンジンは通常の戦闘機や偵察機、爆撃機を製作するために進められていたものですから、実用の目途が立つにつれて「橘花」にも体当り以外の任務が想定されるようになって来ているという訳です。超音速複葉機さんがおっしゃるように、「橘花(橘花改)」はネ20を双発で使うので「もったいない」と考えられ、特攻機生産計画の主力から外されつつあったのが終戦直前の状況です。




    BUN

  8. 便乗質問に、詳しいご返答ありがとうございます。
    企画段階では使い捨ての体当たり機だったものが、開発が進むにつれ用途が広がってゆき、完成したときには通常作戦機なってしまっていたという感じですね。
    簡易爆撃機として企画した剣が、体当たりにしか使えなさそうな機体として完成したこととは、同じ中島製なのに対称的に思えます。
    こうしてみると、橘花の体当たり機としての当初の企画は、ジェット機を開発したいと言う関係者の、方便のように思えてきます。いや考えすぎでしょうけど。
    PANZER

  9. 橘花の計画を進め、反跳爆撃、偵察、戦闘といった通常の用途を盛り込もうとしていた主要な人物は設計者ではなく、最後の航空本部長となった和田操中将です。
    和田中将が自ら小泉への出張を繰り返す程に橘花計画に注力していたのは事実ですし、戦闘機型は和田中将の押しがなければ生まれなかったのですが、もともとの「興国兵器」として簡易特攻機とジェット特攻機の計画を推進していたのも他ならぬ和田中将(当時は空技廠長)です。
    海軍機の試作計画に対して非常に大きな発言力を持っていた人物が派生型の試作を推進していたのですから、夢のないことですが「ジェット機を開発したい」といったエンジニア的なロマンとは無縁の話なのです。
    BUN

  10. すみません私も便乗質問させて下さい(今頃気付いてくれますかね?)
    なぜ日本は遠心式ジェットの開発に失敗したのでしょう?より複雑と思える軸流式ジェットが造れるなら完成できそうなものですが・・
    C#

  11. 持ち時間があまりなかったのだと思います。
    種子島中佐はドイツ持ち帰り資料を見て、
    「タービンの回転の無理がない」
    「燃焼室長が十分に確保されている」
    「噴口が歪まぬ配慮」
    「タービン翼の空気冷却」
    などの諸点に自分たちの及ばぬところがあった、と述べていますが、「燃焼室長」ひとつとっても、初期的なデータの取り直しが必要になってくる要件と思われます。
    それよりも、BMW003の寸度的相似形をまず作ってしまおうという方法が採用されたのは、単純に時間的な余裕がなかったが故だったのだと思われます。
    最初のネ20以降の国産軸流式ターボジェット開発でも、たとえば三菱ネ330などでも官からの計画要求の中に「詳細は独国BMW式並にユモ式TL動力装置を参照するものとす」と拙速を促す一項が謳われています。
    ひとえに彼らには時間がなく、そのためドイツ資料のコピーを離れて遠心式に立ち戻ることが許されなかったのだと思うのです。



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