488  戦闘機の機関銃が前方固定に収斂されたプロセスについて質問いたします。

 第一次世界大戦が勃発し航空機が戦場で運用されるようになり程なく空中戦が発生しております。多様な攻撃手段から機関銃搭載に至るのは当然の成り行きとして、当初の銃座を支点に銃手操作で自由に向きを変えて射撃するよりも、前方に向けて固定し射撃照準は機を操作したほうが高効率であると結論付けられるまでに、どのようなプロセスを経たのでしょうか。
 何かの事情でやむにやまれず固定してみたら以外に使いやすかった、等といった記録があればぜひ伺いたいですし、推測でもかまいません。

 以上よろしくお願いいたします。
DDかず

  1. 何かの論議があったわけではなく、パイロットが無理やりプロペラに装甲をつけて前方固定機銃を装備したモラーヌ・ソルニエ Lが敵機撃墜に戦果をあげ、さらにプロペラ同調固定機銃を装備したフォッカーE1が「フォッカーの懲罰」といわれるほどの戦果をあげたことが決定的に流れを作ったものでしょう。
    手探り状態の最初の空中戦では「論より証拠」だったということだと思います。
    V-22

  2.  V-22様、ありがとうございます。
     仰る意味は十分わかるのですが、私が知りたいのはモラーヌ・ソルニエに機関銃を前方固定しようとした根源的な動機なんです。全く動機なく何かを始めるとは考えにくいです。また当時の機関銃の用法を鑑みれば「固定」するというのは、何かかなり強い動機付けとなる体験などがあっての事なのかと思っているわけです。
    DDかず

  3. ウィキペディアの戦闘機項で固定武装で機動性のあるものが戦闘機として要求があったとあるので固定のほうが使いやすかったのでは?
    そもそも単座戦闘機に前方旋回機銃装備ってありましたっけ?偵察機なら何機かありますが。

    別に機関銃の方向は固定ではないので仰るとおりの用法には何ら反してませんよ?
    みやのふじ

  4. 昔からよく言われているのが、まず翼上面のプロペラ圏外に機銃を置いたが、故障した機銃に手が届かずまた命中率も低いので"ローラン・ガロー中尉"(ギャロスは戦前にはこう表記されていました)がプロペラに防弾鈑を取り付けて、云々、という話なのですが、このギャロスのプロセスでもその前に同調装置が試されてうまくいかなかったことから簡易なプロペラ防弾鈑に移行していますし、同調装置の研究自体はさらにさかのぼった戦前からすでに行われています。
    「機銃の配置はこうあるべき」というある程度理論的なものが1910年かそれ以前から存在していながら、その実施手段を得られぬまま大戦に突入してしまっていた、どうもそんな印象を受けるのですが。


  5. 1.記憶モードですが、「旋回機銃は、見越し角の制御や調節が難しく、命中率が低い」と言う記事を読んだことがあります(航空情報か航空ジャーナルだったと思います。30年以上前なので、著者は青木氏だったと思うが、これも自信はない)。
    2.坂井氏の空戦記を読んでも、その様に思われます。
    UK

  6. >3
    DH2とかご存知ないですか?
    あしか

  7. 旋回機銃の場合、必ず目標機と自機の間に相対速度のベクトル差があるので、所謂、狙い越し(リード)を必要とします。これは、戦闘機のように相互に自由に巴戦(ドッグ・ファイト)が出来る場合、常時変化するので命中率が下がります。
    このため、少なくとも自機からの射線は固定にして、かつ、人間の操縦目線(≒自機の飛行方向)と照準線を一致させることが一番リードをとりやすくできます。このため、前方固定、それも出来れば機軸に近い機種近傍の固定機銃が望ましいわけです。
    (照準のコントロールパラメータを相手の動きだけにするか、自機の機銃の(飛行方向に対する)射線の動き両方にするか、という言い方だと判りやすいでしょうか)

    これに対して、特に爆撃機の場合は、爆撃進路に入ってしまえばコースを崩せません。このため、逆に自機側が(比較的)安定したプラットフォームになるので、旋回機銃をハリネズミのように積むのが有効になるわけです。

    自機が積極的に攻撃機動を行う場合、前方固定が一番狙いやすく、良く当たる。逆に、巡航や爆撃コースで直進している爆撃機等に対しては、機動的でなくても斜銃のような固定機銃もあります(双発野戦が多いのは機動性の問題もありますね)。
    これも、機軸に対するコントロールパラメータを減らした一例、と理解すれば如何でしょうか。
    TOSHI!!

  8. >6
    サンクスでーす。
    勝手に「自由に向きを変えて射撃」を旋回銃座に脳内変換してました。すんません。
    DH2の機銃装備の遷移説明でこの質問はFAな感じが・・・
    みやのふじ

  9.  みなさん、ありがとうございます。
     まず質問内容を明確にしたいのですが、私は戦闘機(航空機)のこれまでの発達を見る事ができる後世の人間ですので、機上からの射撃において銃手が射撃する旋回機銃よりも操縦手自身が機を動かし照準する前方固定機銃が優れているのを知っています。優れる理由も当然経験ではありませんが理論で知っています。そこで、空対空戦闘黎明期の人々がそれを知るまでにどのような経験をしたか、という事なのです。
     戦前のコンセプトであるヴィッカーズの試作戦闘複葉機からは馬上槍試合(これが適切な例示か否か自信はありませんが)同様、射界は進行方向に開けていた方がいい、と理解していた事は読み取れますし、普通はそうすると思います。しかしこれとて機銃を振り回しての射撃が前提で、それの障害となるベルト給弾をドラム給弾へ改めてもいます。で、疑問の核心はここからですが、そのようなコンセプトからモラーヌ・ソルニエのコンセプトへはずいぶんな飛躍に思えるわけです。わずか半年くらいの期間、そこにどんな経験値が生かされたのか、という事です。私は、操縦手が射手に良好な射撃ポジションを与えようと機動しているうちに射手の射撃角が機軸を中心とした狭い範囲なのに気付いた、操縦手から見た射撃好機を射手が逸している、等の体験が基になっているのかと想像しているのですが、あくまで想像にすぎません。
     また、片様の回答はかなり興味深く、フランスは英国と違いすでに後世確認できる空対空戦闘コンセプトをイメージしていた論拠ともなりそうですが、ここでもなぜフランスは実戦も交えずそれに気付いたか、という疑問が生じるのです。
    DDかず

  10. モランソルニエにしてもフォッカーにしても機体としては「戦闘機」として開発されたものではありません。第一次大戦初期まで、軍用機とは実用性に優れる堅牢な複座機のことで、単座機は補助的な存在でした。

    ですから武装を持って敵機を攻撃できる軍用機とは複座機のことで、複座機が初めて空対空の戦闘を経験し、敵機を戦場上空から追い払い航空優勢を確立した初めての事例も、全て複座機の活躍によります。

    プロペラ越しに機関銃を撃つ発想は古くからあり特許も既に存在していましたが、それが実用化されなかった最大の理由がここにあります。複座機の銃座で十分に威力があり、偵察、爆撃、戦闘の各任務に適性があったので、わざわざ不便な単座機を無理やり武装させる必要がなかったのです。

    旋回銃の射撃は後の時代とはまったく異なり、100km/h前後で飛ぶ飛行機同士の戦闘では相対速度も小さいために、十分な精度と威力があります。これがブリストルF2Bなどの強力な複座戦闘機が成立した理由です。
    意外かもしれませんが戦闘機の理想形態は終戦までずっと複座機でした。

    モランとフォッカーの機関銃装備の逸話も大体は一般に語られる通りのものですが、フォッカーの同調装置装備と既に存在していた特許権との調整はドイツ陸軍省が仲介しており、新発明という訳でもありません。

    そして「フォッカーの懲罰」として知られる「活躍」もその実態はごく少数機によるわずかな戦果でしかなく、ドイツ軍も連合軍もさほど注目していません。もちろん航空戦の戦況を変えるようなものでもありません。
    それほどフォッカーEシリーズはマイナーで、あまりに少数しか投入されていないのです。標準化、統一化が進められていた時代であるにもかかわらずフォッカーEシリーズは他の重要機種と異なり他社でのライセンス生産の対象にすらなっていないのです。 
    武装単座偵察機という不便な飛行機の需要など無いからです。

    ですから実用化された同調装置も実際にはフォッカーよりもより使い道の広い複座機に搭載されています。当時の戦場では前方固定機関銃は空対空の戦闘より地上銃撃に大きなメリットがあったからです。

    こうしてドイツ軍は戦場上空を強力な武装複座機で覆い、連合軍側の偵察機を戦場から締め出してしまいます。ドイツ軍側の一方的な砲戦観測や地上攻撃が行えるようになったことは連合軍にとって戦争の勝敗に関わる大事件でしたから、ドイツ軍の航空優勢を打ち破る対策として武装単座機の集中投入が始まります。

    そこで投入された武装複座機狩りを専門とする「戦闘機」がニューポール11ですが、この機体は同調装置を持たず、プロペラ回転面の上から発射する機関銃を上翼に搭載しています。

    こんな具合に当時の航空戦は移り変わっていますので、同調装置という便利な新機軸が画期的に何かを変えた、というような事実はまったくありません。
    無くても同じように戦闘は推移したことでしょう。

    大きな流れとしては、
    汎用複座機に対して単座機もそこそこ有効であり、少しだけ安く簡単に製作できるメリットもあるので、制空権奪還のための大量投入に向いていた、
    そして単座機の武装方法としては必然的に固定機関銃にならざるを得ず、色々工夫されたが同調装置が一番便利だった、ということです。



    BUN

  11.  BUN様、ありがとうございます。
     空中戦技術からの進化ではなく、むしろ用兵上の必要性からという事ですか。また、補助的な1名運用が戦前から視野にあったのなら同調装置の研究が戦前から行われていた事とも辻褄が合います。
     最後に一つお尋ねしたいのですが、前方固定機銃は座数とは無関係に戦闘機の主武装になりますが、空対空戦闘で前方旋回機銃よりも有効だと認識されるのはいつごろからでしょうか。それとも30年代にもXFM-1のコンセプトがあるとおり結論のようなものは出ないまま、再び単座機大量投入が必要となり、それが一段落した後ミサイル時代となりどうでもよい存在となっているのでしょうか。
    DDかず

  12. 最初の空対空撃墜戦果はヴォワザンが記録していますから前方旋回銃は実績があり、しかも有効だった訳です。
    これに対してモランやニューポールは1人乗りですから両手での機関銃操作ができず、固定にするしかありません。しかもプッシャー式ではなくトラクター式です。旋回銃にすることが根本的に不可能なので固定銃を装備したのです。
    ですから開戦前後の時期において、同調装置の発明と実際に装備された武装単座機との関係はそれほど明確なものではありません。

    単座機は戦前の速度記録機などの流れの中にあるもので、騎兵部隊に随伴する飛行機隊など、構造が簡単で分解しやすく軽量であることが求められる場合以外はまったくの厄介者でした。

    終戦時まで「単座戦闘機というものは現在、応急的に求められてはいるものの、重要なのは敵軍機よりも大馬力の発動機を装備した多目的な高速複座機である」という考え方が実績と力を持っており、戦後のドーウェなどが理想とした「空中巡洋艦」的発想の下地となっています。

    前方固定銃vs旋回銃といった構図よりも、前方固定銃しか装備できない単座戦闘機が事実上の多数派を占めている中で、将来的に理想の複座戦闘機を開発したい、装備したい、という考えが第二次大戦直前までずっと残っていた、と整理した方がわかりやすいように思います。そうした理想を追求した機体が現れたとき、それがただ珍機にしか見えない我々の目が曇っているということかもしれませんね。

    BUN

  13.  機材だけ考察していても見えてくるものは僅かということですね。ありがとうございました。
    DDかず

  14. ウィキでいろいろ調べたのですがフォッカーEより先に同調機銃を装備したという複坐機のことが分かりません。よろしければ教えてください。これもウィキ情報ですが、フォッカーEは戦前にモラン・ソルニエ機をライセンス生産したドイツ機をコピーしたものだそうで慣れるまで水平飛行も難しい飛行機だそうです。DH2や主翼上装備の機銃付きニューポール機に戦場より追い払われ、次にアルバトロスD等のドイツ新型機の登場、同調装置を解明してハンディを無くした英仏の新型機というふうに開発競争が続きます。固定銃VS旋回銃の問題は単純に戦闘機は空飛ぶ機関銃と割り切ったほうがいいのではないか思いますが。
    スタンピード

  15. せっかく開発したフォッカーE型機はまともに量産されることもなく、新機軸の同調装置は単座戦闘機の大量生産ではなく複座機の武装用に役立てられた、ということです。

    フォッカーには機体そのものの問題があり飛行停止処分を受けることもありましたが、フォッカーの初期トラブルの最中にニューポール11などの対抗機が投入されてしまったものの、それらが「フォッカーを追い払った」という事実もありません。
    航空優勢の確立によって航空戦の様相を大きく変えた戦いとは1916年2月のベルダン戦のことですが、この戦いに向けられたドイツ軍単座戦闘機は21機でしかなく、連合軍が逆に航空優勢を意識して単座戦闘機を大量投入したソンムの戦いに投入された機数はもっと少ないのです。
    伝説的存在ではありますが、航空戦の主人公ではなく、最初から端役として細々と使われ、けっこう長く使われたのがフォッカーE型機です。
    BUN

  16. 話が万能軍用機と単座戦闘機の比較論に流れたようですが、
    「機関銃が前方固定に収斂されたプロセス」は
    やはりレンガや鉤フックからロケット弾、無反動砲に至るまで様々な試みがされたWW1の航空武装の中で実際に使ってみて効果的だったから収斂していったと考えるのが素直だと思います。

    V-22

  17. >15

    そうした流れそのものが後から作り上げられた物語です。
    戦闘機の概念は戦前から存在していて将来整備すべき機種として各国で計画されていましたし、その主武装は最初から機関銃で揺るぎはありません。あれこれ試した末の事では無く、最初から予定されていた機関銃をどのような形態で搭載するかは、どんな機体を用いるか、という問題なのです。

    そして事実として「前方固定銃を装備した単座戦闘機に収斂された」とはとても言えないのが第一次大戦終結時の状況です。
    BUN

  18. >16
    第一次大戦以前にすでに、推進式複座機の一部に前翼式をやめ、前方へ向けた旋回機銃搭載を可能にしたものが出現しています。
    このような兵器が出現済みの時期に、あらためて煉瓦等を主戦兵器として考える人がいたとは思えないわけです。拳銃にせよ何にせよ機銃が充足していなかったからの代用手段だったのではないのでしょうか。


  19. 同一照準で射撃できる銃の数を増やして行く過程で前方固定にせざるを得なかったのでは無いでしょうか?
    そしてその回答の一つが後の動力銃座だったのではないかと。
    Skylla

  20. 戦闘機の出現は、構想は別にして少なくとも2名の乗員と機銃、弾丸を乗せられる飛行機が開発されて以後のことだと思います。第一次大戦中の戦闘機は人間の幼児期のようにどんどん成長しています。「Wings of WW1 第一次大戦の戦闘機」というサイトに写真入りで各国の戦闘機、偵察機が載っていますので見てみてください。
    スタンピード

  21. >19
    実際には機銃一挺の時期に同調機銃にまで進み終わってるんです。
    同調機銃一挺がほぼスタンダードになり掛けてきた時期に発動機出力の増大があり、それが次に来る同調二挺装備を促しています。

    >20
    色々な機体が載っていて楽しいサイトです。日本のところにはファルマン一〇〇馬力がありますが、1914年青島戦でのこいつの実戦投入数は1機ではなく実は複数であり、うち1機は最初から旋回機銃を装備しています。
    このモーリス・ファルマン(アンリ・ファルマンもですが)はフランスの項にも載せられていて然るべき機体のはず、と思います。
    何がいいたいかというと、「2名の乗員と機銃、弾丸を乗せられる飛行機」は1913年以前にすでに成立していたわけなのです。


  22. >17-21
    そのあたりのことを体系的に説明してあげれば質問者に対する解になるかと
    V-22

  23. V-22さま
    お気づかいありがたく存じます。ですが私はすでに納得のいく答えを見つけておりますので、この質問はすでに私以外の質問継続者の方に委ねられています。
    DDかず


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