494 一名近衛航空隊、帝都防衛の最精鋭部隊と謳われた飛行第244戦隊の装備機が「疾風」でなく「飛燕(後に5式戦)」なのはどうしてでしょうか?本土空襲が始まる前の時点で疾風を配備し、空中勤務者の慣熟を図る余裕はあったと思うのですが。よく「飛燕」は本土配備により「潤沢な予備部品と川崎と直結した良好な整備環境により本来の性能と高い稼働率を維持できた」といわれてますが「疾風」だって「潤沢な予備部品と中島と直結した…云々」といえるでしょう。調布基地には「疾風」の運用に適さない点とかあったのでしょうか?識者の皆様、どうか私の疑問に答えてください。
備後ピート

  1.  まず、4式戦は高性能な優秀機だったので、19年中は南方へ投入することが優先された機材で、必ずしも首都防空部隊が最精鋭というわけではありません。
     そして首都防空部隊は別に244戦隊だけではありません。47戦隊が2式戦保有でして、この部隊は19年末期に4式戦に機種改変してます(基地は成増、今の光が丘公園です)
     244戦隊の機種改変は18年でして、それまでは97戦の部隊、まあいかにも後方のの隊だったわけですが、比較的長期間3式戦を有して扱いに習熟し、南方で消耗してないというのは非常に貴重で、機種改変しなくても充分な戦力な訳ですから(事実活躍したわけですし)
     貴重な4式戦を敢えてまわす必要性を当時の陸軍は感じていなかったということでしょう。
    SUDO

  2.  244戦隊の装備機の変遷を144戦隊時代から追っていくと、
    昭和16年 97戦
    昭和17年 97戦、2式単戦、2式複戦
    昭和18年 3式戦
    昭和20年 5式戦
     と言う感じで、SUDO氏が言っている様に、当初は後方部隊で、ドーリットル空襲後に戦力を微増し、新鋭の3式戦に機種改変を行ったという所でしょうか。
     4式戦が配備され始める昭和19年頃は、戦隊が3式戦の運用に慣れ40機の出動戦力を整えた所で、ココで4式戦を配備して一からやり直しというのも考え難いものがあります。
    更に昭和19年11月末に戦隊長の入れ替えに伴い、操縦者もベテラン・中堅が転出し、戦隊として操縦者の質的に低下していますので、その辺の梃入れも行わなければならず、機種改変等をする余裕は無かったとも思えます。



  3. 昭和6年満州事変の有事に際して、陸軍は当時制式化していた中島九一戦を数的に充足させることが不可能であると見込まれたことから、性能的には今ひとつであった川崎九二戦を第二の主力戦闘機として制式採用します。
    この教訓により、以後の陸軍の単座戦闘機は、中島一社への集中をやめ、中島−川崎−中島−川崎と交互に半世代ずつずらした機材を発注する方針を採るようになります。一極集中が破綻する場合を考えての安全策です。
    満州事変当時よりもはるかに大きな機材数を整えなければならない太平洋戦争時においても、この方針は堅持されています。
    したがって、四式戦がすべてを埋め尽くすことにはならないわけなのです。

    教導飛行師団のように元々混成である部隊を除いて、三式戦の使用部隊は三式戦二型か五式戦に機種改変されることはあっても、四式戦に改変されることはなかったはずです、二四四戦隊に限らず。
    五〇戦隊のように、一式戦から三式戦に改変予定がありながら、三式戦では使用現地の実情に合わないとして一式戦三型に改変になり、さらに四式戦に改変された、という例がわずかにあるくらいです。



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