501 終戦直前の第二十戦闘飛行集団の111、112戦隊が四式戦ではなく五式戦で編成されたのはなぜでしょうか?
世界のさぶちゃん

  1. もうひとつ既存の第三十戦闘飛行集団や、第十二、第百飛行団が大部分四式戦で占められており、なおかつ比島戦、沖縄戦での消耗をから戦力再建中で多量の四式戦を必要としていました。
    四式戦と五式戦は5:3くらいの比率で補給されてくる計画になっていましたから、この時期五式戦が有望視されていたことと併せて機材供給の観点からも、新設の第二十戦闘飛行集団が五式戦基幹で編成を計画されたのは納得できることなのではないかと思います。


  2. 片さん、さっそくご回答いただきありがとうございます。
    五式戦が有望視ということについて、たいへん興味があります。もう少し教えていただけますでしょうか。四式戦にくらべて機体の重さも重く、エンジンの馬力も低く、性能面では比較にならないにもかからわず、檮原中佐の四式戦・五式戦評とか、たまたま乗った海軍のパイロットとか、一式戦乗りの檜大尉とかからも操舵感覚・上昇力・突っ込加速など全般にわたって好評価というのがよくわからないところなのです。
    高速の爆撃機を敵戦闘機の掩護を突破して攻撃できるのが四式戦だが、劣勢で戦闘機だけ相手なら五式戦の方が抵抗できるという考え方なのでしょうか。
    世界のさぶちゃん

  3. 2月に試作機が出来てからの審査が手早くこなされているところから見て、調子の良い飛行機と見なされていたらしいこと。
    敵戦闘機の攻撃を運動性の発揮でかわして離脱でき、比較的生存性が高まったこと。
    なのではないでしょうか。


  4. たびたびありがとうございます。
    調子の良い飛行機であるとの見なし、運動性の発揮、といった判定は三式戦や二式複戦との比較ではなく、当時の四式戦も含めた既存の陸軍戦闘機一般に対する相対評価であると考えてよろしいでしょうか。
    世界のさぶちゃん

  5. もちろん、上昇力のない三式戦一型、不調で生産の伸びない三式戦二型に対してであり、敵戦闘機に対抗できない二式複戦に対してなのではないでしょうか。
    先にも書きましたように、四式戦5:川崎製戦闘機3の割合で供給されて来るだろうことを考えれば、五式戦を選択するのは妥当な判断です。


  6. ↑自分の名前、間違えました…。


  7. 重ね重ねありがとうございました。川崎製戦闘機の枠の中での位置づけと言うことですね。
    世界のさぶちゃん

  8. >2 
    五式戦の方が四式戦より軽く翼面荷重も低いと思いましたが。

    又、四式戦と五式戦で模擬空戦をして四式戦が全然かなわなかったので高い評価につながったものと思います。

    檜氏の印象は一式戦に乗られていた方なので当然の印象だと思います。
    通行人

  9. 当時の多くの五式戦評は、このインタビュー http://www.warbirds.jp/truth/ace.html での一式戦三型への評価と良く似ているような気がします。
    このインタビューには私も同席しましたが、ここで述べられている「負けない」は「勝てる」と同意ではありませんでした。ヒラリと敵の襲撃をかわして射弾を浴びずに済ませられる、という意味合いが大きかったのです。
    (かわせれば敵を前にのめらせて後ろにつける出来る場合もある、とも語られましたが、かなりベテランの勘が必要な業であるという印象で聞きました)


  10. いずれにせよ、20年の中期において、陸軍の戦闘機部隊はほぼ四式戦を主力に据えきっており、これが約20個戦隊ほどあります。
    これに対して、五式戦の装備部隊は、111、112戦隊を各2個戦隊分と数えても10個戦隊に届きません。
    機材の供給予定のバランスからすれば、この時期に新設される部隊は五式戦装備とせざるを得なかったのではないかと思います。
    ずっと機材供給が期待されながら実機が実用に供されずに来てしまっていた三式戦二型がこのアンバランスの原因であり、これに代わって五式戦が機材供給上有望となったのですから、一気に堰を切ったように五式戦装備部隊が登場したことは当然といえば当然のことだったのではないかと思います。

    ただ、現実には川崎の生産設備が破壊されてしまった20年7月以降、五式戦の新規供給は閉ざされてしまいます。
    こののちさらに四式戦の供給まで閉ざされることになれば、陸軍は紫電改を融通してもらう計画に一応なっていました。
    このような破滅的な事態に対応するためにも、単一機材への過度の集中は避けなければならなかったのです。



  11. 機材の比較という点では、http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/oshirase_10.htmに、第三十戦闘飛行集団参謀、飛行第112戦隊長をつとめた檮原秀見氏による五式戦・四式戦についての手記が掲載されています。
    戦闘機運用に携わった中堅幹部の機材に対する見解としてひとつの参考になるのではないかと思います。

    五式戦「各舵の調和がとれて効きがよく、発動機の操作も隼と殆ど同じ、特に発動機の信頼性が高いので実戦むき」
    「(五式戦の)実戦性能をみたいと五四期の一人に四式戦に乗ってもらって単機戦闘をやりました。高位戦は勿論問題はなく、低位からでも四式戦には殆ど有効な攻撃をかけさせないですぐ反撃出来ました」
    「そこで四式戦三機編隊と単機で戦闘をやりましたが、高位から終始有利な域闘が出来ましたし、低位でもだんだん態勢を挽回してゆける」

    四式戦「補助翼が重く、舵のバランスがとれておらず、又発動機の取扱いが複雑で故障が多く出足も悪いので、これから若い操縦者に乗りこなして戦力を発揮してもらうには不適当だと判断していました」
    矮鶏

  12. 一般に「好調」といわれている一式戦や五式戦ですが、部隊によっては一式戦三型が発動機不調の連発で使えないとしてわざわざ二型に機材交換し直しているところもありますし、また五式戦は長距離を飛行する上で発動機に信頼感が感じられない機材だった、という話もあります。
    当時の日本の水メタ噴射の発動機は、結局は同じようなところに落ち込んでいったのではないかとも思うのです。


  13. >片さん

    ハ112-IIの稼働率の話は過去にも出ていましたよね。

    五式戦の高評価は、既存の陸軍戦闘機があったればこその物だと思っています。
    特に三式戦一型丁から転換した場合、それは強い物だったと想像出来ます。

    ここで気になるのが四式戦と比較した評価ですが、比較された四式戦がブースト制限された機体なのか制限解除された機体なのかで印象が変わってくるのでは無いかと思いました。

    もう一つ気になっているのが、ドイツ機とのケースもそうですが空戦の仕方は性能を評価するのに適切な物だったのか?という事です。
    重戦で有る四式戦が中戦と言っても良い五式戦に格闘戦で負けるのは当たり前だった様な気もしました。


    通行人

  14. キ一〇〇が直ちに量産されたのは多少性能が良いといった話ではなく、最初に軍需省の策定したキ六一IIの生産計画があって資材も充当され機体の量産が進んでいたからという理由が一番に来ます。
    また陸軍航空本部はキ一〇〇を「軽戦闘機」に分類しています。
    その理由は低速だからです。

    BUN

  15. これは審査部の今川一策さんだと思うのですが、「キ100は(中略)運動性と速度とがよくマッチした日本的な『中戦』として明野飛行学校などは大よろこびでとびついた」と、少し含みのある書き方をしています。ノモンハン当事戦隊長だった檮原秀見さんなどがこの「明野飛行学校」を代表した立場、ということになりそうです。
    明野を母体とした111、112戦隊が五式戦で編成された背景にはこうしたこともありそうです。



  16. >片さん

    つまらない突っ込みで済みません。
    常陸をお忘れじゃないでしょうか?
    通行人

  17. 梼原さんは明野から常陸に行った人ですので、そういう意味でお読みいただければ。


  18. 今川一策氏と思われる文章には、
    「もし本機が19年春に完成していたならば、と今でも痛こんにたえない思いである。
    キ100はたしかにすばらしい戦闘機であり、運動性と速度とがよくマッチした日本的な「中戦」として明野飛行学校などは大喜びで飛びついた。」と記されていますね。
    決して高性能戦闘機とは評していないところがキモと思われますが、明野のみならず審査部サイドでも五式戦の評価についてはまずは肯定的ではあるようです。

    いっぽう、同じ資料で四式戦に対しては「本機は昭和19年に制式決定してから、終戦までに3,470機も生産されたが、上に述べた理由(プロペラの整備調整不備、ガソリンの質的低下:引用者補記)のほか、操縦者の技倆低下のために本機の実力を発揮で
    きたことはほとんどなかった。」と記されています(ただこれは今川氏の見解かどうかは確定的ではありませんが)。また、11.の引用資料中の今川氏の四式戦に対するコメントは事実であればかなり辛めのものです。

    同じ審査部では、荒蒔義次氏が四式戦と五式戦について、
    「前に疾風はムスタングとまずまず互角に戦ったと書いたが、逆に言えば、やや分が悪かったということである。しかし、五式戦ならムスタングと十分に戦えた。これは、日本に来たムスタングがあまり高高度を飛ばず五式戦のレンジで戦ったということもあろうが、数字だけを見れば五式戦は、最高速度では三式戦に劣り、疾風にももちろん劣るのである。結局ものをいったのは上昇力であった。」
    「ハ112を取り付けた五式戦は重量が軽く、馬力が向上したため前面抵抗による速度の若干の減少以外は初期のキ61に近くなり、わずかな期間ではあったが、航空審査部でわれわれは大気炎をはいたものである。」とこちらもちょっと屈折した評価ではありますが肯定的です。
    矮鶏

  19. いずれも微妙なニュアンスゆえ長々と引用してしまいましたが、つまるところ五式戦は使ってみると意外に良かったものの、機材としては元々疾風のような高性能は計画も期待もされていなかったことが逆説的にうかがえます。

    111戦隊や112戦隊の編成時期にはどういう位置付けだったのかは分かりません。

    戦史叢書「陸軍航空の整備と運用(3)」は、第111・112戦隊編成の経緯として以下のように記しています。

    「昭和二十年春季以降陸軍航空の攻撃戦力の主体は、いうまでもなく特攻隊である。その特攻攻撃を成功させる要点は、特攻隊を目標上空に確実に到達させるための、捜索、誘導、掩護である。陸軍航空は、天号作戦引き当ての戦力を除き残された最後の優良人員、器材を結集して戦闘隊と偵察隊を編成した。」
    「両戦隊は編制定員四一一名、飛行機定数五式戦五五機、外に予備機二八機を有し、当時における最強戦闘戦隊であった。」
    矮鶏

  20. その天号作戦援護任務にあたっていたのが、19年10月から12月にかけて四式戦を装備となった第100飛行団でした。そのほか、台湾所在、さらには大陸所在の兵力も逐次四式戦への改変が進みつつあります。20年4月の時点ではすでに20個飛行戦隊を超える数の四式戦実戦部隊が存在しています(特攻隊の兵力供給源である錬飛を含む)。
    これに対して、四式戦生産数は4月185機、5月198機であり、明らかに供給能力が不足し、事実、機材の補給が滞っています。

    ここに新たに出現したのが、五式戦の供給能力4月89機、5月131機というものです。現在進行中の天号作戦用とその後詰兵力以外に、あらたに決号作戦に向けた戦力を新規構築しようとするに際し、この五式戦を充てるのは理にかなったことだったはずです。
    なおかつ、この新規兵力の基幹要員である「明野飛行学校」出身者が五式戦に積極的だったわけです。

    いずれにせよ、四式戦、五式戦の優劣を比較したところで、そのどちらかに機材を統一するようなことは、この時期すでに不可能です。在る物を使ってゆくしかないわけです。
    決号作戦において、基本的には対上陸部隊艦艇攻撃が主任務である陸軍特攻兵力の中でも、四式戦は高速をもって機動部隊攻撃が可能かもしれない機材と目されていましたし、そうした場合の制空部隊の新規分を五式戦をもって充足しようとした、ということでいいのではないでしょうか。





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