688  烈風の写真は戦後20年以上たって始めて発見されたと聞きます。
当時、ミリタリー雑誌だとどのように取り扱われたのでしょうか?
その当時の丸誌など読んでいた方など、ご記憶にございましたらおしえてください。
ぶーたん

  1. 単純に発見された順番に発表されただけです。
    BUN

  2. 「『幻の戦闘機』として、多くの航空ファンが渇望していた「烈風」の写真である。従来われわれが、図面や想像画などで感じていたイメージとあまり変わらないダイナミックな容姿である。カウリングの形から、三菱製のMK9エンジンを装備したA7M2で、プロペラがとりはずされている。零戦の後継機として、ゼロセンと同じく三菱の堀越技師の手になるものであるが、非常に大型化し、ガルウィングを合わせて特異な形態となり、零戦のおもかげは思った程残されていない。機銃は試作初期のものが、20mm、12mm各2挺であったが、この機体は20mm4挺となっており、主翼折りたたみ部が、日の丸マークを横ぎっているのがみえる。」

    以上が航空ファン1964年8月号増刊「零戦と烈風」に掲載された写真の解説文です。この時、現在知られている「コA7−3」の写真は全て紹介されていて、続く写真の解説文はこのような内容です。

    「予定によると、M2は1945年8月から生産に移り、同年暮には三速のMK9C発動機を装備したM3を試作し、さらに1940年(原文のまま)10月には、排気タービンをつけたM3-Jが作られることになっていた。いずれにしても本気の出現は非常に渇望されたものであったが、当時出現しつつあった米のグラマンF7F(この解説文中ではベアキャットのこと)が700km/hを超える速力を持ち、さらに英のテンペスト5がやはり同様な性能を持っていたときに、630km/h程度の「烈風」が戦力化されたとしても、零戦が出現当時に他国の戦闘(戦闘機?)に対して持てたような優越を誇れたか否かは疑問とするところである。」

    このように未発表の写真が掲載されたこととしてはインパクトがあり、そのために「零戦と烈風」というタイトルもつけられているのですが、1964年という時期は他の機種の情報も同じように乏しく、ことさらに烈風だけが謎の機体として注目されていた訳でもありません。
    また、当時発展期にあったプラモデルでも従来の想像図を参考にしたアオシマの烈風に続いてこの写真を参考に新しい模型が発売されることもなく、十年程のブランクを置いてエルエスの1/144が写真を参考にした初のプラモデルとして発売されるまで模型の世界での反響もありません。

    解説文も至って冷静な調子で、この機体が量産されたとしても活躍できなかっただろう、と結んでいます。

    こうした紹介のされ方と、それに続く詳細な情報がなかったことが今ひとつ盛り上がりに欠ける状況を生んだのではないかと思います。

    1970年代初めに詳細な解説書が出版されてBf109K型やG型後期型の全貌が明らかになった(と思われた)際のような、あるいはその後に空母信濃の写真が発表された時のような衝撃は無く、1964年頃というかなり早い時期であったたこともあり、大きな衝撃を受けるだけの受け皿となるファン層が十分に育っていなかったように感じられます。
    BUN

  3. 烈風は三菱鈴鹿工場で製造されていました。
    実物は見たのですが、写真は撮れませんでした。
    スケッチしましたので。下記をご覧ください。

    http://senri.warbirds.jp/07ooi/ooi4-2.html
    老兵

  4. 烈風の製造は三菱大江工場です。機体完成後に三菱の港整備工場か鈴鹿整備工場へ輸送して再組立てと整備、完成審査が行われまていました。ほとんどの機体は鈴鹿で海軍に領収されないまま20年7月28日空襲を迎え、破壊されています。
    老兵さんの「蒼空の果てに」に書かれている「まだ試作機として二機だけしか組み立てられていないとの話」というのは、8機作られた烈風A7M1からA7M2への改造が20年5月時点では2機しか完成していないという事実と符合します。そしてこの改造作業は、なるほど鈴鹿で行われています。
    老兵さんがご覧になった直後にA7M2の3号機が改造完成され、三沢へ空輸されます。この機体を戦後撮影した写真が雑誌発表されたときのことがここで話題になっているわけです。



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