702 零戦の後継機の開発が十六試から十七試にずれ込んだのはいろいろな理由があったようですが、既に中国との本格的な戦争に入っていたのにも関わらず、なぜそんなに悠長に構えていたのかが疑問でした(同時期の米国の艦戦開発と比較してもそう思います)。それで、No.695の片さまの解説を読んでいて思ったのですが、その理由の一つは当時戦闘機開発の優先順位が局戦や複戦に向けられていたからでしょうか。
codfish

  1. 長くなってすみません。

    と言うのは「もし十四試局戦が川西の一号局戦のように、艦戦として転用できる余地があったらどうなっただろうか」と思ったからです。十六試ならば発動機は金星か誉しかない訳ですが・・・
    codfish

  2. すみません。訳わかりませんね。

    ×→十六試ならば発動機は金星か誉しかない
    ○→十四試ならば発動機は火星しかないし、十六試ならばハ43は無く、金星か誉しかない

    です。
    codfish

  3. 時期的なことでいえば、マル5計画により、500機以上の陸上戦闘機の新規増勢が予定されていた頃でもあります。艦戦部隊は増勢されず、艦戦搭乗員の陸上戦闘機への転用が考えられていました。
    だからといって新機材の試製に抑制がかかったのか、というとそこは違っていたようにも思います。
    何より、十六試ならば手に入る誉もあったにもかかわらず、十七試艦戦は誉二二型という誉でもデラックスなタイプを待つために延期されているからです。艦戦であるというある種のハンデを持ちつつも、高性能であることが望まれていたわけです。

    その登場までのストップギャップとして、三菱では実際に、十四試局戦を改造して艦戦化できるもの、とも考えられていたようです。
    三菱では視界不良の件を受け十四試局戦の胴体を細く作り直すことも考えていたようではありますし、個人的には、艦戦化の際には紫電同様、誉装備に向かったのではないかと想像しています。



  4. 十四試局戦闘機の計画要求が決定したのは昭和15年になってからです。
    それまでの十四試はDB601の搭載も視野に入れていましたが、第二次世界大戦の勃発で技術導入が途絶える惧れがあり、火星へと装備発動機が変更されています。
    十五試水戦(後の強風)とまったく同時に雷電の発動機指定が行われていることは偶然ではありません。
    BUN

  5. 片さんがおっしゃる「三菱重工製作飛行機歴史」にあるような十四試局戦の艦上機としての可能性の検討は火星装備決定以前に存在したことだと考えられます。どう考えても火星搭載機の艦上戦闘機化はイメージしにくく、また当該史料以外に登場しないからです。おそらく十四試の研究会段階で出て来た話ではないかと推定しています。
    BUN

  6. なるほど。

    当初には「艦戦とははっきり別物」としての局戦がより強く意識されていたのではないか、と思う気持ちがあったので、できあがった主翼さえ使えればということかと思っていたんですが(強風系列まさにこの流れです)、高速で「今までの暫定艦爆とははっきり別もの」の十三試艦爆と同じ発動機なのだからと同じようにセットで考えたほうが、飲み込みやすい話ではありますね。


  7. >>片さま
    >>BUNさま

    お返事ありがとうございます。

    そうすると、二つの疑問というか、可能性を考えてしまうのですが、

    @ 一四試局戦には火星発動機しかなかったとしても、例えばF4Uのように改修を繰り返すことで将来的に艦戦として実用化できる余地はなかったのでしょうか。この場合雷電とは全く別物の機体としてですが、前方視界と着陸速度の問題は例えば天山やF4Uにしても同様の欠点があったのではないでしょうか。

    A 十六試艦戦の場合、誉一〇系では次期艦戦の要求性能を満たせないにしても、発動機の換装を前提として二〇系が完成するまで当面一〇系の発動機を搭載して十六試艦戦の開発を進めようという機運になぜならなかったのでしょうか。当時の日本を取り巻く状況、米海軍の二の手三の手とも言うべき艦戦開発を見ると、どうしても悠長に構えていたように思ってしまうのですが・・・


    codfish

  8. @については、雷電だけでなく紫電も存在しており、比べてみてより有望と思われる紫電をそうした方向で進ませた、と考えれば良いのではないでしょうか。

    Aについては、零戦の性能向上がはかられていたことも含めて考えてみるのはどうでしょうか。


  9. >>片さま

    お返事ありがとうございます。

    実は、三菱の事情が十六試での開発を許さないのなら、そもそも誉の開発には海軍が深く関わっていた事情もあるし、いっそのこと中島に次期艦戦の開発をさせればいいじゃないか、と一瞬考えたのですが、というよりも、海軍と川西の関係というか、海軍が川西を三菱に次ぐ海軍御用達の戦闘機メーカーに育てようとした、という意図と、もしかしたら無関係ではない、という事でしょうか。そうなると紫電二一型の艦戦採用、烈風の高高度戦闘機化はある程度海軍の意図した路線であったのでしょうか。


    codfish

  10. > 9.
     昭和16年頃に中島が開発中だった海軍機は、一号水戦(二式水戦)、十三試陸戦(二式陸偵/月光)、十四試艦攻(天山)、十四試大攻(深山)の4機種(三菱は新規開発が十四試局戦(雷電)、十六試陸攻(泰山)の2機種、既存機改修が二号零戦、仮称一式陸攻一二型の2機種)もありますし、更に零戦の転換生産も始めていることを考えれば、新規に艦戦の開発に取り組む余裕はなさそうです。

     また紫電シリーズの元になった強風は水戦ですが、この機種を海軍は艦戦と同じ甲戦に分類していますので、紫電二一型がある程度ものになり、試製烈風の開発が思わしくないとなった時点で、紫電二一型を艦戦に転用するという発想が出てくるのは自然なのではないかと思います。
    T216

  11. 「紫電改の艦戦化」「烈風の高高度戦闘機化」は、「三菱の烈風」と「川西の陣風」の中身を入れ替えた感じですね。
    本来なら実用機試製計画で定められた通りに進むにこしたことはなかったはずですが、成り行きで入れ替わっちゃった、というところなのではないでしょうか。


  12. >>T216さま

    お返事ありがとうございます。中島の件はキ43、キ44が実用化しょうかという時期であり、キ84はまだ開発が始まっていない時期ですから、どうかと思ったのです。かつて三菱が陸軍にキ18、キ33を提出したように、。中島もキ84と略同型の戦闘機を海軍に提出する可能性はなかったのかなあと、想像してみたのです。陸海軍間の微妙な空気を考えたらちょっと妄想が過ぎたかも知れませんね。

    >>片さま

    お返事ありがとうございます。

    やっぱりそうですよね。私が少し穿ち過ぎたようです。陣風って物になってたらいい戦闘機になっていたように思うんですけど、さすがにもう時間が無かったのでしょうね。
    codfish

  13. すみません訂正です。

    ×→中島もキ84と略同型の戦闘機を海軍に提出する可能性はなかったのか

    ○→中島がもし十六試艦戦を手掛けていたら、キ84は十六試艦戦の略同型の物を提出する可能性はなかったのか

    です。
    codfish

  14. キ84は局戦ですね。
    艦戦というのは発着艦という特殊な用途のために特化された戦闘機なのです。


  15. もうひとついえば、支那事変の勃発によって戦時体制に入って以降、中島の海軍機部門と陸軍機部門はそれぞれ海軍管理工場、陸軍管理工場とされ、組織としても人的にも分離され、それぞれの内部で完結させられています。海軍が陸軍機であるキ84を所望して陸軍と協定を結んで入手するということはあったとしても、中島小泉製作所が、太田製作所のキ84を海軍に売り込む、という構図は考えにくいです。


  16. >>片さま

    ええ、私も当時の生産現場は同じ工場であっても海軍用と陸軍用のラインはついたてなどで仕切りを設ける位の状況下で生産されていたことなどは存じ上げております。

    ただ、中島にとっても「誉搭載の時期艦上戦闘機」という話は非常に魅力的な話ではなかったかなと、そう思ったのです。そして、中島にはそれを実行できる能力があったと思いますし、もしそうなれば後のキ84は先に開発が先行していた十六試艦戦の物をベースに設計したのではないかと、ちょっと想像してたのです。これは当時中島が取り掛かっていたキ62などとは全く別のラインの話としてですけれども。

    いや少し妄想が過ぎましたね。質問の範疇を超えてしまいました。十七試艦戦の辿った経緯はちょっとよくわからない部分が多く、また議論したい事柄も多いので、もう少し勉強してから議論ボードで提案したいと思います。どうもありがとうございました。
    codfish

  17. 別のところでのお話と同じく、この件も「軍需動員」ということでかんあげなければなりません。
    メーカーが自社の商売としてこうした製品を作って売り込もう、というある種自由経済の時期は、支那事変による国家総動員法の発動とともに過去のものになっているのです。


  18. あ、「考えなければ」ですね。
    「かんあげなければ」じゃなんのことだか。


  19. その場合に抑えておかなければならないのは、とりあえず「中島」という会社はなくなっていたも同然、というところです。
    「ついたてなどで仕切り」どこれではなく、中島の陸軍用機体部門は太田製作所、海軍用機体部門は小泉製作所と別々になり、それぞれに技師長が立ち、それぞれ別々の設計部門を持ち、性能計算を行う空力部門すらそれぞれ独自のものをもつようになります。
    例えば推力式単排気管のようなものですら、中島小泉がそういうものをやってるらしいよ、ということを太田が聞いて小泉からデータをもらったのがだいぶあとのことになっていたり、とそんな感じです。
    富嶽で再び合体するまでは別々の会社になっていた、と考えた方が理解しやすい感じです。



  20. >>片さま

    丁寧なお返事をいただきありがとうございます。

    そうですか、やはり戦争がそれまでの状況を一変させてしまったのですね。推力式単排気管の件はなるほど、そうした事情を鑑みれば合点のいくお話です。

    長らくのお付き合いどうもありがとうございました。
    codfish


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