710  皆様、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
2013年元旦の初質問です。

 日本陸軍で海軍の空技廠に対応する組織である航技研(航空技術研究所)の活動が
低調だったのはなぜでしょうか?

 空技廠は、功罪両面あっても彗星、銀河を実用化させ、両者系3000余機が量産され、
戦力化を果たしています。
 また発動機においても栄、誉の開発に深く関与しています。

 対して航技研は、キ93を終戦間際に初飛行させたのみで、発動機の開発でも目立った活動は
見られません。

 技術面でも、直近のスレでもあったように排気タービンや層流翼など重要な技術革新で
海軍に遅れを取っているように思えます。

 世間的にも、こちらに来て間もなくの頃、危うく
>陸軍には、空技廠に対応する組織がないのは何故ですか?
という質問をしそうになるくらい影が薄い印象があります。

 航技研は、予算や人材の獲得で何かハンディを負っていたのでしょうか?

                           2013.1.01.元旦 0:15記

NG151/20@謹賀新年

  1. 海軍航空技術廠の陸軍側のカウンターパートが航空技術研究所という認識は正しくありません。ご自身で感じられた「陸軍には空技廠に対応する組織がない」というのが正解です。

    陸軍の航技研の機能はどちらかというと海軍航空本部技術部(時期により名称が変わりますが)に相当します。

    海軍の空技廠のような実験研究及び試作機能を持つ大きな組織は陸軍には無く、昭和18年の軍需省設立に伴い陸海軍の航空統一が検討された際、海軍だけが持つ空技廠を陸海共有とするか否かについて議論が行われているように、陸軍の航空技術研究所とは規模と性格が異なる組織です。
    BUN

  2.  BUN様、あけましておめでとうございます。
     ブログやツイッターも拝読しています。

    >「陸軍には空技廠に対応する組織がない」というのが正解です。
     ビックリ仰天、目が点になっていますが、それでは逆に、空技廠は何故、何時頃から史実のような巨大組織に肥大していったのでしょうか?

     オール国営のソ連はともかく、西側列強で実験機ではなく実用機の開発にここまで出しゃばった国営機関はないはずです。後発国で民間の工業基盤が脆弱な日本に特有の、という事情であるなら、陸軍にも同種の組織があって然るべきですが、そうならなかった理由はどこにあるのでしょう?
    NG151/20@謹賀新年

  3.  また、原質問に挙げましたように、日本の軍用機開発において重要な技術革新は
    ・外皮も含めた全金属製・・・九六陸攻、九六艦戦
    ・沈頭鋲の全面導入・・・九六陸攻、九六艦戦
    ・引込み脚・・・九六陸攻、九七艦攻
    ・セミ&フルインテグラルタンク・・・九七艦攻(セミ)、一式陸攻(フル)
    ・層流翼・・・強風、紫電、彩雲
    ・排気タービン・・・雷電32型
    とすべて海軍機が先行しています。

    他にも前述の発動機の開発に加え、
    ・住友−ハミルトンのデファクトによるプロペラ製造の一元化
    ・アルクラッド板導入による無塗装化
    ・DB600系導入への着手・・・愛知
    なども海軍が先行していますが、これらも空技廠を持つ海軍の優位によるものなのでしょうか?
    それとも、海軍の方が常に過酷な要求をしていて、メーカー側がそれに応えるために新機軸を採用せざるを得なかったからでしょうか?
    NG151/20@謹賀新年

  4. 航技研は、
    「臨時軍用機球研究会所沢工場」→「所沢陸軍航空学校研究部所沢工場」→「陸軍航空本部技術部」→「陸軍航空技術研究所」
    と変遷してきた組織ですが、航本技術部、航技研としての任務は機体計画と、審査にありました。航本技術部の頃には部内の設計部門を廃止してしまっています。昭和17年10月の組織改編時に、第一陸軍航空研究所に設計課が設けられてキ93用になるまでは独自の設計能力をもたなかったのです。
    それ以前に近代的な機体の設計を行ったのは八七重爆、九二重爆、九一戦二型程度でしかなく、それぞれ川崎、三菱、中島の社内に現場を置いて設計作業に携わり、その後は各社に任せる形をとっています。技術面では民間会社に多くを置くという方針をとったのです。
    このため、大戦中にキ71やキ79を設計する必要に迫られたときには、満州飛行機の設計部員を航空工廠内に配置して設計班として使わなければなりませんでした。
    また、この17年の組織改編では、部内各部を独立させて第一〜第八陸軍航空研究所としていますが、この中には海軍空技廠の科学部に相当する空力の研究部門が存在しません。



  5.  片様、あけましておめでとうございます。
     今年もよろしくお願いします。

    >近代的な機体の設計を行ったのは八七重爆、九二重爆、九一戦二型程度でしかなく、
    >それぞれ川崎、三菱、中島の社内に現場を置いて設計作業に携わり、その後は各社に任せる
    >技術面では民間会社に多くを置くという方針をとったのです。

     九二式というと、空技廠では同じ頃に民間他社を破って九二式艦攻の採用を勝ち取っていた時期ですね。空技廠は、その後の九試艦攻でも中島、三菱を破って九六式艦攻となり、同廠の技師(確か山名正夫氏)が「民間何するものぞ」と大いに意気を上げた、と学研の「空技廠」で読んだ記憶があります。航技研と空技廠の消長はその頃から始まっていたということでしょうか?


    >海軍空技廠の科学部に相当する空力の研究部門が存在しません。
     現在ログ落ちしていますが、昨年7月中旬の648.で紡錘理論に関する問答があり、
    >LB翼は、強風のために東大航研と川西とが作ったものなのです。
    との片様のご発言があり、
    >陸軍の層流翼への取り組みは? キ78等のLB翼は、海軍の便乗、後追いか?
    の趣旨の質問をしようとしました(生業が多忙で、下書き段階で放置、立ち消え)。

     海軍は、一式陸攻、雷電と既存機にレトロフィットさせてまで層流翼を積極導入したのに対し、陸軍で戦力化された機体に層流翼搭載機はないはずですが、これも独自の空力研究部門を持たないor持てなかった故でしょうか?

    NG151/20@謹賀新年

  6. 「巨大組織に肥大」した「実験機ではなく実用機の開発にここまで出しゃばった国営機関」だというなら、それが陸軍に無くてよかったではないですか・・・と言うのは意地悪ですけれども、海軍が航空廠を設立した背景には揺籃期の航空技術を育成するために実験研究機関を統一する必要を感じたからです。
    単純な模倣ではなくて、科学的データを収集して理論に基づいた設計が行われるように民間を指導できる実験研究機関が必要で、海軍はそこに設備投資をして、設立当初は飛行機製造で先行する民間各社から殆ど評価も尊敬もされなかった航空廠が大規模な風洞施設を設けたり、様々な実験設備を整えて行く中で、実力をつけていった過程が、空技廠設計の実用機です。
    外国にもNACAなどこうした機能を持つ機関はいくつも存在します。
    空技廠が先進的実用機の設計まで行っているのは民間では採算の取れない投資を行えるためで、先進技術の習得と普及が重要だった日本の航空工業にはこうした存在が有効だったということです。
    また住友ハミルトンの育成などは航空本部の技術行政の成果で空技廠とは直接の関係はありません。

    陸軍は陸軍である程度の進展があった技術分野はできるだけ民間に移管して技術行政によって育成をはかるという方針で進んでいますが、これも考え方としてはきわめてまともですが、1930年代の航空技術の躍進期には先進技術の採り入れと普及と言う点で適切ではなかった、と考えることもできます。

    BUN

  7. >航技研と空技廠の消長はその頃から始まっていたということでしょうか?

    ですから航空技術研究所は航空廠(空技廠)のカウンターパートではないので比較できません。人員も機能も基本的に陸軍航空本部技術部で、海軍の航空本部技術部と組織もよく似ています。
    そして母体が航空本部ですから空技廠が行わない業務を担っています。それが新機種の計画関係の業務です。海軍の空技廠は新機種の試作の指導には当りますが、各社の監督官は海軍航空本部から派遣されます。
    大切なのは航技研と空技廠ではやっている仕事が違う、ということです。


    BUN

  8. ひじょうに各論的な話になりますが、空技廠科学部が東大航空研究所を巻き込んで「風洞水槽研究会」という学会研究会レベルの会合を定期的に開いていました。ここには空技廠各部局、航研、海軍機各メーカーの研究員のほか、ときに応じて陸軍からの出席もありました。陸軍機メーカーの技術者の多くも東大航空学科の出身であり、この場での進展は、全体としての日本の航空力学の底上げに貢献しています。
    日本の層流翼といえば、東大航研のLB翼、中島小泉のK翼、立川のTH翼などがありますが、層流翼はこの席上で醸成された研究テーマだったわけです。
    こうしたことからも、空技廠はアメリカのNACAに近い方向性を向いていたといえるのかもしれません。

    陸軍機では、キ78などより以前から川崎キ64が早くからLB翼を取り入れています。
    ほかの場所でも書きましたが、対米英戦の開始とともに陸軍の重戦闘機計画には整理が計られてキ64は研究機レベルに下げられ、キ84が前面に出てきますが、このキ84が層流翼ではない在来翼型だったのは、むしろ新機軸を外して現場で実証済みの技術だけで構成して手堅く短期的に実現させなければならない計画だったからだと考えます。さらにその先のことを考えたときに立川キ94のTH翼のようなものが現れてきているのです。



  9. >外皮も含めた全金属製

    これは九六式などよりもずっと早い話です。
    全金属製の機体は第一次世界大戦中にドイツですでに作られていましたが、第一次大戦後、陸海軍民の合同調査団をドイツに派遣して、金属製飛行機製造技術習得を行っています。
    当時、この技術は大型機に適したものと思われていたので、海軍では大型飛行艇、陸軍では重爆撃機を作り始める話になってゆきます。
    ドイツの技術を導入した海軍の飛行艇は広廠で作られることになりますの辺でも、自軍内でそれを行うか、民間会社の技術として育成するか、という違いが現れていたりもしますね。



  10. さらに各論になってしまいますが、この第一次大戦後の時期にはドイツの航空技術に対して各国軍隊が直接関係を持つことはベルサイユ条約で禁じられていましたので、日本海軍の場合は三菱を表に立てて使っています。その後すぐに呉廠の広支廠がこれを引き取っていますが、三菱自体として習得した技術、得たドイツとの関係もあったわけです。こうしたものを応用したひとつの例が九六陸攻や九六戦の構造や沈頭鋲であるわけです。しかし、それ以前に三菱は陸軍の九三式重爆、九三式双軽爆、九二式重爆撃機などにそうしたものを使っているのも忘れてはならないと思います。九六陸攻などは、海軍を通じて英国の技術と結びつけられていた三菱の海軍機が、それまで陸軍機に使っていたドイツ式を取り入れた結果ともいえるのです。





  11. 堀越奥宮「零戦」には七試単戦の設計にあたって堀越技師が海軍航空本部技術部の担当官からどのようにサジェッションされたかが書かれていて、
    理由を述べた上で「今回は低翼単葉にしてみよう」「逆ガルにしてみよう」と三面図を描いて見せられた、という話が載っています。
    このように、航空本部技術部は要求仕様を伝えるだけでなく、その達成のためには技術をどのように使うべきか、という提示もして来ます。
    陸軍キ84の場合でも同様で、航技研の方でハ45の使用等今回使用する技術的な要素をまず並べ、これに基づいて性能計算した後、会社側を呼んで試作内示が行われています。

    昭和10年より以前では、このような「今回使用する技術」はほぼ海外の技術であったわけです。こうした「今回使用する技術」のネタ元を国内できちんと整備しようと考えられたのが海軍空技廠であった、という感じ捉えれば良いので社内でしょうか。


  12. 「良いのではないでしょうか」ですね。失礼しました。


  13. >BUN様、片様
     詳細な解説ありがとうございます。

     いただいたご解説と再構成した自身の知見をまとめると

    1)海軍が空技廠を設立・拡張したのは、民間各社に先進航空技術を習得・普及させるためには、
      自前の実験研究機関を所有する必要を感じたからである。
    2)海軍は、空技廠で得た知見を海軍内で囲い込むことなく、風洞水槽研究会の主催などで
      陸軍、学界にも積極的に開示しており、日本版NACAともいうべき地位を得ていた。
    3)陸軍は、海軍のように自らが主導権を握るのではなく、技術分野はできるだけ民間に移管して
      技術行政で育成を図るという方針であった。しかし、予算や人員で制約を受ける民間メーカーに
      とって技術移管は荷が重く、成功したとはいえなかった。
    4)陸軍は、空技廠から技術情報を得られることに満足しており、研究機関を自前で持とうという
      必要性を感じていなかった。
    5)空技廠が、彗星、銀河等の実用機の開発にまで関与したのは、予算、人員、設備のいずれも民間
      より有利な立場にあり、先進技術を存分に取り入れられたからで空技廠でなければ両機の完成は
      困難だったと思われる。
    6)航技研の主たる業務は、機体計画と審査にあり設計部門は廃止された。しかし陸軍が自前の設計
      部門を持たないことはやはり支障が多く、大戦中に設計部が再開設されキ93の開発にあたった。

    となりますが、過不足、遺漏はないでしょうか? 皆様のご指導お願いします。

    >「今回使用する技術」のネタ元を国内できちんと整備しようと考えられたのが海軍空技廠
     大変よくわかりました。その恩恵には陸軍も浴していたということですね。
    NG151/20

  14.  前回紹介の648.の紡錘理論の直前、647.キ98(元雷電=キ65)に関する問答で片様は、空技廠主催の「風水槽研究会」をご教示されていました。当時早速検索したのですが「防火水槽研究会」(泣)のようなものしかヒットしなくて
    >やっぱりAnsQで勉強しないとダメだ。検索では限界がある。
    と再認識していました。

     今回「風洞水槽研究会」と改めて掲示され、「空技廠、風洞水槽研究会」で検索したら、某研究所の通産政策の研究発表のパワーポイントが見つかりました(「風水槽研究会」は、片様お得意の誤字入力だったのですね、プンプン)。

    経済産業研究所(RIETI)
    「ナショナル・イノベーション・システムの変遷」
    http://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/11061601.pdf

     そこに戦前の産官軍学連携の一例として風洞水槽研究会が紹介されており、第8回(昭和15年10月)の出席者一覧も表示されています。

    海軍:2名(広廠、佐世保工廠)
    陸軍:8名(将校7名、技師1名)
    東京帝大:8名(航空研究所7名、教授1名)
    中央航空研究所:8名(研究官7名、嘱託1名)
    中島:7名(全員技師)
    三菱:3名(同上)
    愛知:6名(同上)
    川西:6名(同上)
    昭和:3名(同上)
    日立:3名(同上)
    住友:3名(内技師2名)、以下略

     注目すべきは、陸軍からも8人も来ていること。空技廠が、陸海を超えて日本版NACAとしても機能していた実態が理解できました。
    NG151/20

  15. 陸軍の出席者中には、キ84の空力設計を担当することになる中島太田製作所の近藤芳夫氏(短期現役で陸軍に入営中)、東大航研で谷一郎氏の助手としてLB翼に携わったのち陸軍に入りさらにのちにキ93の空力設計を担当することになる航技研の野田親則氏の名前も見えますね。

    風洞水槽研究会のようなものがすべてではありませんが、このような例もあったということです。


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    http://homepage2.nifty.com/nishidah/m_j2ef.htm

    」ホ」ヌ151/20

  19.  申し訳ありません。投稿が文字化けしました。
    ・投稿部分の書式をクリア
    ・下書きファイル(Word)を一旦閉じて再度開く
    ・貴ページを一旦閉じて再起動
    をして再投稿も効果なく、拙PC自体を完全停止→再起動して投稿しています。
     管理人様、お手数ですが、前3項削除ください。


    >片様
    >陸軍の出席者中には(中略)近藤芳夫氏(中略)航技研の野田親則氏の名前も見えますね。
     ご解説ありがとうございます。横着しないで名前も書けという督励と解釈しまして、他の出席者も紹介します。

    海 軍 
     廣工廠     杉浦兵大尉
     佐世保工廠   安達兵大尉
    陸 軍      緒方大佐、松村少佐、盬見技師、千田中尉、
             中井中尉、野田中尉、近藤中尉、赤澤中尉、
    帝大航空研究所  妹澤所員、河田所員、小川所員、深津所員、
             谷所員、 木村技師、今井属託
    東京帝大     守屋教授
    大阪帝大     小谷助教授
    九州帝大     近藤助教授
    中央航空研究所  山内研究官、梅津研究官、田所研究官、神谷研究官、
             西野研究官、寺田研究官、福田研究官、奥平属託、
    航空局      飯塚航空官、村上航空官、
    中島飛行機    三竹技師、福田技師、松村技師、山田技師、
             内藤技師、中村技師、片岡技師、
    三菱重工業    大石技師、藤野技師、松藤技師、
    愛知航空機    松尾技師、石井技師、小澤技師、杉本技師、
             小池技師、古賀技師補、
    川西航空機    猪熊技師、奥山技師、平櫛技師、田中技師、
             菊原技師、高島技手、
    昭和飛行機    田上技師、宮崎技師、井合技師、
    日立航空機    村山技師、茅根技師、佐治技師、
    住友金属工業   小川幸次、神谷技師、下間技師、

     中島三竹、内藤、愛知松尾、川西菊原と私も知っている名前も多くあります。中央航空研究所からも8人来ていますが、どんな組織かよくわかりません(昭和13年の設立と国立公文書アーカイブから見つけましたが)。
     また海軍の二人は、いずれも兵大尉という見慣れない階級名ですが、その他の104.で艦船ファン様が紹介している一覧表にある造兵大尉のことでしょうか?
    http://homepage2.nifty.com/nishidah/m_j2ef.htm

    NG151/20

  20.  う、陸軍の名前が一人文字化けしている(これが原因かな)
    &#30444は塩の異体字と思われ(Wordの手書きで出せる)監の字の上右の下部の横棒「一」が古になっています。

    NG151/20

  21.  ― 知見の整理と残る疑問 ―
    >3.拙投稿
    >・外皮も含めた全金属製・・・九六陸攻、九六艦戦
    >・沈頭鋲の全面導入・・・九六陸攻、九六艦戦
     日本における全金属製は、九二式重爆撃機〜九三式重爆で陸軍が先行、沈頭鋲も九五戦で実用化されているので陸軍機が先行と見解を改めました。

     しかしそれ以外の技術での海軍先行は変わらず、インテグラルタンクもキ71で一式陸攻量産中の三菱名工へ行って燃料漏れ止めを教わるという状態です。
     またキ65、キ85と海軍の試作機を陸軍向けに導入しようとしていた安直な姿勢も気になります。
    以前過去ログで、キ84に対して海軍側が「誉の開発にタダ乗りした上に(資源配分は陸海折半の取り決めがあるため)生産の半分を持っていってしまう」と不満を抱いたとの記事がありましたが、先端技術の開発は海軍にお任せ、成果はゴッツァン」という体質があったのでしょうか?

    >キ84が層流翼ではない在来翼型だったのは、むしろ新機軸を外して現場で実証済みの技術だけで
    >構成して手堅く短期的に実現させなければならない計画だったからだと考えます。(片様)
     海軍が、より「手堅く短期的に実現させなければならない」既存機の改修にも層流翼を導入しているのとは対照的な選択です。私は、そこに空技廠を持たない陸軍の層流翼への認知の低さを感じるのですが如何でしょう。
     それとも、クルト・タンクが「戦地では表面の平滑を保てず、層流翼は不適=武人の蛮用には耐えず」として層流翼を敢えて斥けたのと同様、日本陸軍も「黄砂が吹きつけ、艶消し迷彩でザラザラの表面では無意味」と層流翼の効果を承知の上で避けたのでしょうか。

     それよりも総体的には、戦後巷間に流布された陸海軍の対立は、こと航空の分野ではなく両軍は緊密な協力関係を維持していたという要素が大きいのでしょうか。
    NG151/20

  22. 中島は小泉製作所の三竹技師長以下、福田第一機体主任、松村第二機体主任、山田動力係長(発動機艤装)、内藤性能係長(空力)、片岡風洞部長、中村勝治さんも空力ですね。と、空力部門を設計部内に取り込んだこの製作所らしく、機体設計と空力の両分野の上の方が顔を揃えています。
    他社もだいたい同じです。
    一方で、三菱だけが研究課(空力)しか来てないみたいですね。三菱が層流翼への取り組みが浅く、海軍からの指導を受けて谷一郎氏を名古屋まで派遣させて伝授することになっている理由はなんとなく透けて見えるような気がします。

    この風洞水槽研究会へ参加している陸軍のメンバーは航技研中心です。
    航技研でキ84の概略を定め、さらにそこから近藤さんが中島太田へ戻って空力を担当しているわけですから、そこは意図的に外してNN系を使ったというものでしょう。
    野田親則さんは満飛の設計部研究課長となって、キ98の空力と主翼を手がけていますが、ちゃんと層流翼を使ってます。
    陸軍だから無知蒙昧、と見る必要はないの訳です。


  23. 「ないの訳です」はこりゃまた失礼しました。

    >海軍が、より「手堅く短期的に実現させなければならない」既存機の改修にも層流翼を導入しているのとは対照的な選択です。

    といいつつ、結果的に烈風はおろか、キ84と同時にスタートを切ったはずの紫電系列もロクに実戦投入できていません。
    層流翼も包絡線式空戦フラップも持たない拙速主義の四式戦は、零戦の3分の1にものぼる機数を作り上げることができています。それでも実戦投入時期が遅すぎています。
    層流翼は高速を発揮するために有利なものですが、結果的に四式戦と紫電改の速度はどっこいどっこいです。
    四式戦は手動式の空戦フラップを持っていましたが、使い始めてみてからは、これは要らない、と事実上廃止してしまっています。
    四式戦に色々な要素を持ち込まなかった方針設定は合理的で有効なものだった、と思うのですが。


  24.  まず訂正とお詫び
    誤:インテグラルタンクもキ71で
                  ↓
    正:インテグラルタンクもキ77(A26)で
     陸軍及び立川飛行機の皆様、申し訳ありません。

    >一方で、三菱だけが研究課(空力)しか来てないみたいですね。(片様、以下略)
     実は表を最初に見た時から
    >会社の規模に比して三菱が3人だけとは少なすぎる
     と感じ
    >密接・密着の中島、天下り傀儡の川西、全面依存の愛知に対し
    >どこか三菱の他所他所しい関係が反映しているのでしょうか?
    と書き込もうとして控えていましたが、そういうことなんですね。

    >キ84の概略を定め(中略)そこは意図的に外してNN系を使ったというものでしょう。
     諒解しました。層流翼は、速度発揮には有利でも失速特性が悪く大迎え角を多用する戦闘機には不向きという評価もあり、前述の欠点もあるので敢えて不採用ということですね。

    >>海軍が、より「手堅く短期的に実現させなければならない」既存機の改修にも層流翼を導入
    >キ84と同時にスタートを切ったはずの紫電系列もロクに実戦投入できていません。
     紫電11型なら1000機量産で、昭和19年11月にフィリピン戦線に投入されていますが。
    (キ84の初陣は、同年8月中国戦線で、フィリピン方面はほぼ同時期)
     それに紫電系列の不調は
    ・飛行艇と水上機専門として陸海協力からも免除されていた(議論ボード過去ログより)川西に
     戦時下で陸上機デビューさせたのが、そもそものボタンの掛け違い。
    (強風を岡(陸)に上げざるを得なくなった雷電の不調がケチの付け始め-泣-ですが)
    ・拙速主義で胴体を大きく変えず中翼のままの陸上機化とそれによる二段引き込み主脚の不調
    <参考>
    飛行機の脚
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~t_miyama/landgia.html
    紫電(あんまりおりこうさんじゃないシステム)←本文解説より、以下も同じ
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~t_miyama/georgleg.html
    P47(その方法は簡単で合理的で力づくです。難しいことをした紫電とは大違い)
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~t_miyama/p47leg.html
    ・生産数の差は、中島と川西の生産能力が反映されたもの。
    等にあり、層流翼のせいではありません。実際、紫電改になっても主翼は紫電と同一なのですから。
    NG151/20

  25. >結果的に四式戦と紫電改の速度はどっこいどっこいです。(片様)
     紫電改は翼面積が大きい、工作精度の低下による表面粗度の悪化といった一般的に知られる理由に加え、失速特性対策で捩り下げを大きく取ったのも理由(どの迎え角でも主翼の半分が最高速度に最適の角度にならない)では、と私は考えます。失速特性が悪いことへの対策が、層流翼の利点を損ねてしまったということです。

    >四式戦は手動式の空戦フラップを持っていましたが、
    >使い始めてみてからは、これは要らない、と事実上廃止してしまっています。
     実はこれも、昨年7月の628.陸軍機に自動空戦フラップ未装着の理由は? で投稿しようとしていたことですが、
    >空戦フラップは、手動では最適の揚抗比を得ることが難しく、抗力増大による速度や高度の低下か
    >所期の旋回性能が得られない結果になりがちで、自動でないと真価を発揮できない。
    という問題があり、蝶形フラップ以来の手動式を陸軍は使いこなせず、使われなくなり空戦も格闘戦から編隊による一撃離脱主体に比重を移していました。
     で、実際にキ84では、機体の強度対策もあって操舵力を故意に重くして急機動を抑えるようにしています(後年のF104のPTCのようですが)。こうして陸軍では空戦フラップは、用済みになりました。

     対して海軍では、ゼロ戦の操舵感覚に慣れたことで却って一撃離脱への転換が遅れ、雷電への過度の拒否反応を引き起こしています。その後、敵弾回避に横滑りの急機動も多用されるようになり、対応して胴体の補強や垂直尾翼の減積が行われています。
     旋回性への志向は減っておらず、操舵力の低下「舵が軽い」ことが求められ、烈風は全舵にバランスタブが付き、天雷は、昇降舵にスプリングタブによる操舵力の低減が図られました。
     自動空戦フラップはこの状況では必然の装備であり、実用化できれば極めて有効な装置なので紫電改が使わない理由がありません。

    >四式戦に色々な要素を持ち込まなかった方針設定は合理的で有効なものだった
     結果論で言えばそうなのですが…。でもこれだとキ84は、F6Fと同系、同思想の産物ということになりますが…。

     新奇なものより、熟成した在来技術が却って好成績というのは、過給器もそうで雷電で最高速はターボでもフルカンでもなく、旧来の機械式過給器の翼車を大きくした33型だし、高高度爆撃で最も戦果を挙げたのも同様の火星15型装備の一式陸攻です。

     基礎工業力の低い日本では、背伸びした新機軸より身の丈に合った古い技術の方が有効、となると敗戦寸前に景雲を弄っていたことと併せ「空技廠なんて無用の長物だった」という結論になってしまいます。
    ・複雑繊細にして実用機に非ず(彗星)
    ・国破れて銀河あり(銀河)
    ・高価なおもちゃ(景雲)

    NG151/20

  26. そのような印象はこの機関の機能の理解が足りないところから生まれている、と御説明し続けているはずですが、残念です。
    BUN

  27. 彗星、銀河、景雲を作った空技廠(この場合は飛行機部)は、航本から発注を受ける廠社のひとつなのであって、自発的に物づくりに挑んでいるわけではないのですから。

    四式戦についていえば、あれがあれだけの数を作れたのは、中島の生産設備を整備させたことも含めて、かなりの判断が必要だったはずです。
    とりあえずまずその時点で必要なものを手に入れて、大量に生産する設備も整えて、同時にその次その先を考える。そうした技術の使い方・方針というものがあればこそ、遠藤三郎中将のように、今大戦での陸軍航空は当面の戦闘機生産に一極集中してしまって構わないからここはしっかりやれ、とハッパかける立場もありつつ、陸軍はキ84で終わりにせずキ87もキ94もキ201も作ってるわけですよね。

    大なり小なりの方針を下す立場と、技術の蓄積を図る立場とを渾然とさせない、というのが、航技研や航本技術部みたいなポジション(当然さらに上部の方針決定者もあるわけですが)と、空技廠の本質的な違いをわきまえるときに大事であるわけです。





  28. >BUN様、片様
     申し訳ありません。1/5の仕事初めの当日未明になっても書き込みが終わらず、思考力が落ちて感情的で不適切な表現をしてしまいました。

    >そのような印象はこの機関の機能の理解が足りないところから生まれている(BUN様)
    >空技廠飛行機部は、受注する立場で自発的に造っているわけではない(片様、要旨)
    >方針を下す立場(航本技術部)と技術の蓄積を図る立場(空技廠)の違いを理解し、
    >両者の機能を混同してはいけない(片様、要旨)
    (後3行のような引用の仕方が不適切であれば、ご指摘ください)
     
     プロ野球やJリーグでいうGM、球団社長と監督、コーチの違いのようなものと理解すればよろしいですね。これら、特にプロ野球で監督がGMの職能にまで容喙してくる事例がしばしばあって、あまり良い結果にならないという話しもよく聞きます。

     それで、実はその「自発的に造っているわけではない」点で疑問を感じている事例があるのです。
    唐突に景雲の事例を持ち出したのは、思春期の私に大きな影響を与えた「日本の海軍機」(酣燈社)の景雲の項で
    >機種整理の槍玉に上がった景雲に対し、開発を続けたい空技廠側は、将来のジェット化の
    >母体になり得ると主張して、開発続行を認めさせた。
    >実現可能性の乏しい話しを持ち出して開発続行を認めさせるのは言語道断であって、
    >技術者の良心を売る行為であると言われても仕方ない。(記憶による再構成)
    と最大級の表現で批判されているのを思い出したからです(同書は総じて空技廠に批判的で「複雑繊細にして実用機に非ず。高価なおもちゃ」も同書から)。

     28.(文字化け項が削除されていたら25)の執筆にあたって、改めて「景雲 偵察機」で検索すると液冷双子型エンジンという基本レイアウトそのものが、空技廠側の提案であったこと、それらに前掲書以外でも批判的評価が発せられていることがわかりました。片様ご指摘の事態が、実際に起きていたように思えます。

    空技廠十八試陸上偵察機「景雲」
    http://homepage1.nifty.com/storatos_home/airplane/so_/keiun.htm
    >設計主任であった山中正夫中佐を中心とした技術陣から
    >「並列配置のエンジンにより3400HPを発生させ、これを機体中央部に配置した上で
    >薄翼の層流翼を使用する事により、大きく仕様値を上回る機体が開発可能である」

    日本陸海軍機入門
    景雲 こぼれ話
    http://rikukaigunki.nobody.jp/sisakuki/keiun.html
    >景雲は機種統合で整理対象になるべき機体だったが、将来のピストンエンジンから
    >ジェットエンジンに換装したときのための基礎データを得るためにピストンエンジンでの
    >開発を続行する、という空技廠の何とも歯切れの悪い言い訳で開発中止とならなかった。
    >役所は既得権益を守るためにはへりくつを並べ立て、身内の処分が甘いのは今も昔も変わらない。

     長じた今となっては、キ94-I、キ98もあり相対化すべきと理解できますが、陸軍が早期にキ94-IからIIに路線転換したのと比べても、対照的な推移です。
     一番印象に残りやすい最後の結果を以って、設立以来の空技廠の実績全体を否定してはいけないとのは当然ですし、だからこそ22(19).の拙稿は誤りですが、敗戦寸前の空技廠とその上部機関の迷走の度合いはより大きかった(キ108と電光の対比なども)と思います。


     申し訳ありません。明日から生業が本格的に再開し、繁忙期に入りますのでこれ以降当スレへの投稿は1/13(日)以降とします。もちろんご意見、ご批判、ご指導の投稿は大歓迎ですが、返信は遅れます(艦船コーナーでも返信をしないといけないのですが)。

     他の常連さんからご心配もいただいていますが、生業に支障を来たさないよう、世間に迷惑を掛けないよう努力する所存ですのでご理解ください。

     元旦から1週間ありがとうございました。
     改めて今年一年が、皆様に良い年でありますように。
                            2012.1.06.14:55記(中締め)

    NG151/20

  29. 景雲については確かにその経緯にゴタゴタしたものを感じはしますが、19年7月に航空本部が行った試作整理の際に中止となっておらず、乙種指定(状況により採否決定のもの)であり、「TR30装備研究」という但し書きがついています。この時点ですでにタービンロケット化に向かう航空本部判断となっていたのです。従ってこの夏景雲は中止されておらず試製の作業は続行されています。19年末頃に一時中止になったのは設計班が銀河へのTR10装備の実験に回されたからであり、その断念後の春以降に景雲へのネ330装備の計画が進められるようになります。これはこの頃にネ330の実物が完成しつつあったことともちろん関係あるわけで、「将来のピストンエンジンからジェットエンジンへの換装」というよりは、もっと緊迫感のある問題だったように思います。というのは、当時国内で試作されていたジェットエンジンの中では最も離昇推力が大でありつつ大直径のネ330は橘花には装備できないからです。このエンジンが登場してきたときにすぐに装備する機体を用意しておく必要がある、というのが景雲改についての空技廠設計主務者の意見でした。
    この同じ主務者は、それ以前に7割方進んでいた十七試陸偵の試製を用兵側の方針変更で中止させられており、これに関して「結果論として本機(十七試陸偵)の完成をあくまで主張すべきであった。(中略)所詮新(珍)兵器を求めていたと思われる」と述べており、これは、生産の簡易化を考えて銀河の治具が部品を多様出来るようにされたことを否定されたからでもあります。
    また、景雲については「本機のはじめは自分としては、研究機として試作するなら良いが、1年後の実用を目指して作るのは、作戦計画の根本を誤らすものであるからとの理由で強く反対したが、『熱意論』に勝てず、主務を押しつけられたが、やるとなった以上、できるだけやさしく作り得るものにするために奮闘した。従って『何から何まで新しく』という風潮に強く抗して『新しいものは一つだけ』という主義で邁進した」といっています。
    民間会社の機体設計とそれほどの違いを見出せない部分です。
    「身内」への処遇が甘かったのであれば、それよりはるか以前に暁雲は完成していたでしょうし、「二座にすれば速度要求は達成可能」「飛行高度を高くすれば速度要求は達成可能」という設計側の提案も取り入れられていたでしょう。
    NG151/20さんの例えを使うなら、空技廠飛行機部は監督などではなく一選手に過ぎない、ということなのです。
    組織論をするなら、まずその組織の成り立ちや実情を把握し、考えを深めてからにした方が良い、と思います。




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