874  再び失礼します、お知恵を拝借させてください。
 零戦の生産が開発元の三菱だけでなく中島飛行機でも行われていたのはよく知られていますが、昭和一九年に入ってもまだ中島ではすでに二二型、三二型、五二型があるのに二一型の生産を続行していますが、何故中島は二一型を生産し続けたのでしょう? すでにラバウル等の前線から二一型は低速で五二型を望む声があったはずなのですが、三菱とのやり取りで何らかのトラブルがあったのでしょうか?
タンゴ・ツー

  1. 準備と手間のかかる軍用機の製造は月度ごとに需給を検討しながら進めるような形ではなく、前年度後半に概略の計画を立てて内示して発注します。ですから中島飛行機には昭和17年中にA6M3ではなくA6M2を昭和18年度に何機、という形で発注されているのです。このために昭和19年度を迎えるまで、三菱ではA6M3(製造側では五二型以降もA6M3の改造機として扱われています。)、中島ではA6M2の生産が続きます。
    前線の要求が強まり、複数の航空隊からの要望が集まり出した昭和18年後半から中島でも五二型の製造が準備され、生産も始まりますが、一旦、発注されて材料や部品が集められてしまった二一型の生産も続行されているということです。

    また製造権については、三菱、中島の関係だけでなく、海軍機の製造権は海軍も持っていて、海軍自身はライセンスに関係なく自身の工廠で製造することができますし、民間会社間の調整は航空本部が行いいますから、両社の間の利害対立といったことはあまり影響しません。

    BUN

  2. ご回答ありがとうございました。
    タンゴ・ツー


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