1021 零戦後継機の紫電改の大量量産及び零戦の金星換装が終戦に間に合わなかった帝国海軍と2式単戦後継機の4式戦の大量量産と3式戦のエンジン換装が大戦中に実現できた帝国陸軍。この航空装備行政の違いは何なのでしょう。ノモンハン事件を経験した陸軍に一日の長があったのでしょうか。
つかだ

  1. 海軍の場合、本来なら雷電が間に合っていたはずなのに間に合わなかっただけです。
    保険の紫電が間に合わなかったら目も当てあれない状況になったでしょう。
    この問題は、言うなれば常に新しい技術を投入していた海軍(失敗しやすい機体ばかり求めていた)と、
    保守的な設計の飛行機(キ84)と新機軸の飛行機(キ83・87・94
    等)を同時に進めていた陸軍の差とも言えます。
    最も、戦闘機ではなく爆撃機を眺めれば銀河や彗星など、立派に間に合った機体もありますので、海軍が一概に間違っていたとは言えないでしょう。

    液冷から空冷へのエンジン換装の点では、
    海軍は彗星33型・43型合わせて830機と5式戦以上に生産していますので、立派に換装が実現しております。
    P-kun

  2. 紫電の多量生産と誉への換装が実現できていて、紫電の迅速なる低翼化を大戦中に実現できた、といういい方も出来ますね。
    雷電が駄目なら紫電、閃電が駄目なら震電という代打策も講じられています。

    個人的には、零戦金星換装、雷電、烈風と肝心なところを同じ会社のひとつの課に集中させすぎたのがまずひとつの敗因だったように感じています。

    陸軍の場合は、満州事変のときに中島一社に戦闘機を集中させるのは危険で、川崎にも分担させて置いた方がよいという知恵がついています。



  3. 昭和14年度から試作してきた期待の星である雷電がコケてしまったときの選択肢として、戦闘機生産経験の無い(というか陸上機も経験なかったのではないですか)川西に紫電を作らせるよりキ44なり84なりを三菱や川西に生産させる方が現実的でスケジュール的にも最短だったように思えますが、陸軍機の導入は全く検討の余地がなかったのでしょうか。
    もの知らず

  4. キ44はそれほど速くもないのでキ84へと性能向上しようとしているわけですし、そのキ84が量産に持ち込まれるのは19年上半期です。
    実際に海軍が実験機として入手したキ84はその時期の機体です。
    その頃には紫電は500機近く完成しています。

    座して待つよりは、自前の戦闘機を作り出そうとする姿勢の方が合理的と思えます。複数の開発がパラレルに走っていることが大事なのですから。



  5. あ、500機は数え間違い、300機でした。
    四式戦と紫電の生産数の差は、19年6月時点で400機対300機という感じです。


  6. 戦史研究方面では、ノモンハンとダンピールの影響が少なくないと見ているようです。『戦史研究年報』とか『軍事史研究』に、そういった研究論文があります。その見方が正しいかどうかは、当方にはなかなかわかりませんが。
    100万

  7. 片様

    ご回答ありがとうございました。19年上半期では紫電も疾風もほぼ同じ生産量だったのですね。終戦までにキ84がJとJ改を合わせた倍以上生産されたのは川西と中島の生産力の差でしょうか、それとも資源配分の差だったのでしょうか。

    もの知らず

  8. >7

    「一式戦、二式戦、三式戦、四式戦、五式戦の合計」と「零戦、雷電、紫電、紫電改、烈風の合計」で見比べてみてください。
    単座戦闘機の全体量では陸海軍のあいだにそれほどの違いはなく、異常なのは零戦への過集中であることが分かるかと思います。零戦の生産数が多いのは、そうなるように求められてのことではなく、更新すべき後継機への切り替えにもたついたために長く作り続けなければならなかったためです。陸軍単座戦闘機の合計よりも海軍単座戦闘機の合計がやや少ないのも、このもたつきが原因しています。

    陸軍は適当なところで一式戦、二式戦を切り上げて四式戦に上手に移行させているのに、海軍は後継機雷電で躓いてこれを本格的な量産に持ち込みきれず、紫電系列に切り替えたところで終わってしまっています。最終段階では海軍も紫電改の生産を巻き返すために手持ちの廠社を総動員する体制を採っています。

    陸軍は、早い時期に割り切って四式戦に生産を集中させるための措置を採りつつ、三式戦を並行させようとしています。このような陸軍の姿勢は、満州事変当時九一戦が間に合わなかったこと、そのときもう一機種九二戦が用意できそうだったのが意外と効果的と思えたことなどに起因しているのだと思います。



  9. もう少し具体的な四式戦と紫電改の生産ラインの比較でいいますと、中島太田では最大月産数が300機に届く月すらあったのですが、川西鳴尾は最大100機弱程度です。
    四式戦は増加試作機を100機作ったことでもわかるように相当な準備をして量産にかかっている。
    一方の川西は、三菱大江の零戦が135機がピークであるのと傾向が似ていますから、紫電から紫電改への転換が出遅れの原因になっていたようだ、というところでしょうか。


  10. >6
    彩雲や銀河、流星を含めて「誉エンジンの陸海軍への分配」という視点で眺めると色々と見えて来ますよ。
    BUN

  11. 片様、BUN様

    ありがとうございました。疑問が氷解しました。銀河、流星、彩雲、紫電、紫電改、天雷、連山、烈風で使われた誉の数を合計すると約4200基、疾風での使用基数を超えますね。零戦から紫電、紫電改への生産ライン切り替えは栄を誉に切り替えるのと同時でなければならない訳ですね。そうならなかったのは、生産が全く停止する時期ができてしまうからですか。
    もの知らず


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