1073 野原茂『日本軍用機事典 陸軍編』にてフランスのブレゲBr.460M5双発機を日本陸軍が1936年に多座戦闘機研究用に輸入したという記述があることを知り興味を持ったのですが、この輸出は事実なのでしょうか?

ブレゲ460の試作機1機がスペイン内戦の共和空軍に送られ喪失したという話は疑いようのない事実のようですが、英仏西語の複数のWebページにて「唯一の」試作機がスペインに送られたという記述があり、これを信じるならば日本に輸出されたブレゲ460は存在しなかったということになります。

また英語版Wikipediaのブレゲ460の記事
https://en.wikipedia.org/wiki/Breguet_460#Variants
中では、「Bre 460」と「Bre 460 M5」が発動機の違う別機扱いで1機ずつ製造されたように記述されていますが、これもWikipedia以外の他ページでは同一の試作機に途中で発動機換装などの改造を行っただけで、460の型式番号を持つ機体は「460 M5 N °01」ただ1機だけであるかのように解説されています。

またWikipediaでは
http://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1936/1936%20-%203186.html
を出典としてブレゲ「461」が1935年に日本に供給されたとありますが、そのリンク先の記述は今年(1936年)送られたと書いており、最早Wikipediaの記述すらあやふやになっています。
さらにロシア語の
http://www.airwar.ru/enc/bww2/br462.html
や、その引用元になっている
http://alternathistory.org.ua/bombardirovshchiki-razvedchiki-breguet-460462-vultur-frantsiya-chast-2
に至っては、ブレゲ460の試作機は1機しか存在しないと記述すると同時にブレゲ「461」が間違いだと否定し、本当に日本に輸出されたのは多座戦闘機ではなく爆撃機のブレゲ「Bre 462 B4」の試作機N °01であるとし、日本に分解梱包で送られ現地で組み立てられて飛ぶまでが詳細に書かれています。ブレゲ462については複数のサイトで「2機がヴィシー政権下まで残り解体された」とありますが、こちらも総生産数が2機と3機ではっきりせず、2機のみである場合日本に輸出されたという話と矛盾し、一方で3機説を採るページではソースが同じところの子引き孫引きであるためか残り1機の来歴について全く触れられていません。

以上のように日本に輸出されたブレゲ双発機について、多座戦闘機460なのか爆撃機462なのかはっきりしないほど非常に情報が錯綜しており、また460ならば、製造された試作機が1機のみである場合スペイン内戦に送られたという疑いようのない事実と矛盾してしまいます。

ここからが質問になるのですが
@日本に輸出されたのが460M5と462B4のどちらなのか
A460試作機の製造数は1機のみなのか複数機なのか
B日本陸軍での評価試験記録のようなものは残されていないのか
の3つを質問とさせていただきます。

また、戦前日本が輸入した海外機について非常に細かく網羅しているという野沢正『日本航空機総集 輸入機篇』に本機についての記述があるのではないかと期待しているのですが、もしこの絶版本をお持ちの方がいましたら、載っていないか探していただけないでしょうか。
tellus

  1. 野沢正『日本航空機総集 輸入機篇』には460M5として載せられています。
    おそらく、野原茂『日本軍用機事典 陸軍編』はこれをソースとしているのだと思います。


  2. >片様
    『日本航空機総集 輸入機篇』には「輸入した」以上のことは書いていないのでしょうか。多少なりとも具体的な記録があれば信憑性が増すのですが。

    日本が今まで開発・装備した経験の無い全く新しい概念である双発万能機を陸軍が参考目的で初めて購入したのですから、評価や万能機構想への手ごたえのようなものが一切日本側史料に残されていないというのはあまりに不自然です。
    製造機数の矛盾もあって、460M5の輸出入は実際には取引不成立か中止となり実機が日本に送られていないか、あるいは462B4の誤認であったとしか考えられません。
    tellus

  3. 『日本航空機総集 輸入機篇』にも、同じ著差の別の本にも、「輸入した」以上のことは書かれていません。
    それでいて、Br.460M5を1機日本に輸入という話のネタ元は、野沢さんの本そのものであるような感じです。
    野沢さんがどこからそうした話を仕入れたのか、ちょっと考えてみた方がよいのかもしれませんね。


  4. 学研の「日本陸軍軍用機パーフェクトガイド1910〜1945」には記載されていませんね。
    1935年のデボワチンD510や1937年のヴォートV−143など、研究用途で1機のみ購入した機体も記載されていますので、その間に当たるブレゲ460M5だけ抜けていると言うのも考え難いです。
    やはり輸入した事実はなかったのでは?
    薩摩

  5. ロシアのサイトで挙げられている「462B4爆撃機を日本が輸入した」という話に関しては、書籍か何かで読んだことがある人はいないでしょうか?
    これはソースとしてフランスの航空誌Avion第106号(?)が挙げられているようですが該当誌を読まなければどうにもなりませんし、せめて日本語・英語・仏語等の他の文献で同様の記述があれば多少は信憑性が増すのですが。

    自分としては460M5同様日本側の記録が確認できず、さらにBCR機ならまだしも通常の爆撃機を当時の陸軍が購入する意義がほぼ無いため、この記述に対しては460M5に輪をかけて疑っています。
    tellus

  6. 非常に興味深い話題なので少しばかり調べてみました。

    まず、460M5が戦闘機で462B4が爆撃機と言うのは間違いです。
    どちらもMultiplaces BCR(多座 爆撃・先頭・偵察機)として開発されたもので、1938年版のジェーン航空年間には462B4は戦闘機と記載されています。
    また、当時の陸軍が爆撃機を購入する意義はないとの説ですが、九三式重爆の後継としてBR.20を購入したことを考えれば意味がないとは言えません。

    日本航空機総集 輸入機篇には「昭和11年に陸軍が双発戦闘機研究用のサンプル機として輸入した。」と書かれており、簡単な機体の説明と諸元が載っていますが、日本での写真がないため「フランスにおける同型機」の写真が掲載されています。

    フライト誌1936年11月10日号の記事は「In essentials this machine is similar to the Breguet 461 delivered to the Japanese Government this year.」となっており、引き渡し時期は日本航空機総集の記述と一致します。

    仏誌AvionsのNo.105とNo.106号に460/462の特集記事が出ていますが、詳細な解説と多数の写真が載っており、信頼性は非常に高いと思います。
    ネット等に出ている情報は殆どがこの記事を引用したものです。
    Avionsによると、460M5はスペインに引き渡され、1937年2月に海に墜落して失われた1機のみで、日本に売られたのは462B4のNo.01でエンジンをノーム・ローン14Nから14 Kdrsに戻すなど回収が加えられたため、しばしば誤って461と呼ばれたことがあったそうです。改修後1936年末に分解梱包され船で日本に運ばれ、到着後ブレゲの技術者の指導の下組立てられました。
    No.106の49ページには完成した462B4の前に並んだ、日本側関係者とブレゲの技術者の写真が掲載されています。
    三角野郎

  7. 6.に変換ミスがありました。

    先頭→戦闘
    回収⇒改修
    三角野郎

  8. >三角野郎様
    Avionsの該当号を所持している方がいるとは光栄です。
    やはりその記事を引用したロシアのサイトと記述はほぼ同じであるようですが、本当に日本で撮影された写真が残っているのならば462B4が日本の空を飛んだ話は事実でしょうね。
    Avionsの該当記事には、組み立てられた後のパイロットや陸軍飛行隊軍人の本機に対する評価やその後の購入機の経過(何年に事故損失した・スクラップにされた等)はないでしょうか?

    自分がブレゲ機輸入の事実を疑い続けてきた最大の理由は、他の30年代の陸海軍輸入機に比して日本側にブレゲ機輸入の記録・写真・証言が残っておらず(収集されていないだけかもしれませんが)、また連絡機や偵察機の類でなくこの時期に研究目的で買った双発の立派な戦闘/爆撃機であるにも関わらず、その後の陸軍機の技術・戦術に応用されたような言及も無く、日本の書籍でほとんど触れられない幻のような存在であるためですが、三角野郎様はこの原因をどのように考えられますか?

    蛇足ですが2つほど反論させていただきますと、まず460M5のMが多座戦闘機のMultiplace de Combatであり462B4のBはBombardierなので、462B4は少なくともフランス空軍での分類上は爆撃機だと思います。飛行性能は向上し銃座の数などは変わっていないのである意味BCR機の順当な強化型ともみなせますが。
    また、自分が「爆撃機を当時の陸軍が購入する意義が無い」とした時期は支那事変勃発前であり、九七重爆までのつなぎとして緊急輸入したイ式重爆とは違い1936年時点で陸軍が火急の要に迫られて爆撃機を海外から買うようなことは無いと考えます。
    tellus

  9. 当時(昭和10年代前半)の日本の出版物でも、460M-5は「多座戦闘機」「戦爆」、462B.4は「爆」として区別されてますね。


  10. 時期的に述べるならば、多座戦闘機ならばキ三十七〜三十九試作に当たっての参考用、双軽爆ならばキ四十七〜四十八試作に当たっての参考用ということが考えられます。
    あくまで印象の問題ですが、多座戦といっても五座もある460M5が二式複戦の原型であるキ三十八あたりに与えた影響はあっても小さそうです。
    一方で四座の460B4が九九双軽に何かを与えたのではないか、と思う方がピンと来るところがあります。
    ただ、航技研関係者の戦後の著述などを眺めても、この時期にブレゲーを参考にしたような話が出て来ず、依然として曖昧としています。



  11. 「爆撃機を当時の陸軍が購入する意義が無い」ということについては、上に書いたことにも関連しますが、昭和11年当時といえば、満州事変戦訓に基づいて新軽爆の開発をはじめようとしている時期に当たっています。これが、キ二十九〜三十二の単軽爆、キ四十七〜四十八双軽爆になってゆくのですが、そうした時期に海外の機体を購入して参考にしようということはあってもおかしくはない話だと思います。

    462B4と九九双軽の銃座配置は似てるよね、という程度のものでしかないあくまで個人的な心象だけなのですが、双軽爆ヒント説の方がいくらか説得力がありそうに思います。


  12. Tellusさん、遅くなりましたがAvions No.106の記事を補足紹介します。
    Bre 462の1号機は1936年のパリ航空サロンに出品されていましたが、これを見た日本の視察団が興味を持ち購入が決まったとの事で、ライセンスを買って生産する意図もあったそうです。
    日本に到着後はブレゲ社のチーフエンジニアEvrardの指導の下、カワムラ大佐の指揮にカネコ技師とサイトウ技師らよって組み立てられ、1936年末にハラ少佐の操縦で再飛行しました。1937年春にEvrardはフランスに戻りましたが、その後Bre 462の消息に付いては何も聞かなかったとの事です。

    双発戦闘機の研究用サンプルであれば日本の視察団がBre 462を選ぶとは思えませんし、ライセンス云々が事実であれば九三式重爆の後継機として考えていた可能性もあります。
    また、Bre 460、462は共に立派な爆撃機で460を戦闘機とする説はavion de combatをcombat planeではなくfighterと訳したせいと思います。フランス軍でのavion de combatは実戦に使用される機体(戦闘機、爆撃機、偵察機)の総称で、輸送機、練習機は含みません。

    三角野郎

  13. >三角野郎様
    ありがとうございます。Avions誌にもそれ以上の記述は無いのですね。
    最後に一つだけ質問ですが、Avionsのその記事には参考文献の出典は載っているでしょうか?
    もしかするとAvionsと違いamazon.frで簡単に買えるような本があるかと思いまして。
    tellus

  14. 著者、Pierre Cortet独自の調査による記事のようで参考文献としては何も挙げられていません。
    資料提供者としてはMichel MarrandとPhilippe Riccoの名が出ていました。
    三角野郎

  15. ありがとうございました。まさか文献に拠らない独自調査の新発見(?)とは予想外でした。
    逆説的に言えば記事の調査内容はAvions106号が出版された2002年までフランスでも表に出ていなかった情報であり、それより古い書籍で読めるような内容ではないですね。
    今後日本側でも史料が発見される可能性に期待しつつ、この質問はこれで結びとします。
    tellus


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