1085 当初、零戦は艦上戦闘機であるが故に最大でも1,000機程度の量産しか計画されていなかったと聞きました。では雷電の開発がうまくいっていた場合、雷電が零戦に代わって1万機以上生産されるということになったのでしょうか?
つかだ

  1. とりあえず前提的な話から。
    雷電生産が順調に軌道に乗った場合、零戦の三菱での生産は18年8月で終了になるよいでした。ココまでの零戦の生産数類型を割り出して見られることをお勧めします。
    さらに、この三菱での零戦停止日程を決めた17年12月の時点で、中島へ1200機の零戦二一型の追加発注が予定されています。
    つまり、零戦1万機のうち本来雷電の生産分だったはずのものは、1万機に近い数字では存在し得ないのです。
    それから、烈風の分なども勘案しなければなりませんね。


  2. ↑2行目 「よい」→「予定」 「類型」→「累計」です。すみません。


  3. >当初、零戦は艦上戦闘機であるが故に最大でも1,000機程度の量産しか計画されていなかった

     私もその話は聞いたことがありますが、この話での「計画」というのは海軍の調達計画ではなく、航空機メーカー側の人たちが持っていた「艦上戦闘機?まあ制式採用されたとしても売れるのはせいぜい1000機じゃね?」というような認識程度の話のようです。
     実際に空母に配備されるのが400機、陸上基地に配備される予備または訓練用で400機、後継機が配備される前に寿命を迎えてしまう機体の老朽更新分が200機で合計1,000機と目論んでいたようです。
     零戦は無駄に緻密に作られていて生産効率が悪いと指摘されることがあり、そうした指摘に対して「どうせ1,000機程度しか売れない機体だから、生産効率よりも性能に比重を置いて設計された」というような説明の根拠とされているようです。
    おうる

  4. 当初予定されていた零戦が主力機として使用される期間は十六試で試作発注される後継機が実用になる十九年度までの約4年間ですから、もし1000機であるなら、年間250機製造されるということで、250機の部隊配備機に対して年間100%の補充を考慮していることになります。
    支那事変勃発後に試作された戦闘機の製造数としては母艦機とその補用機だけで250機は使い果たされてしまい、基地航空隊の配備機はまかなえません。

    しかもこの数字は平時の目安ですから、事変後の戦時の補給水準で考えるなら製造機数が4年間で1000機であるなら125機程度の配備しか見込めません。
    1000機という数字は事変後の戦闘機生産という観点からは「少な過ぎる」数字であるということです。

    そして、事変前の平時すなわち昭和ひと桁時代の常識で眺めるなら、1000機という数字は「この程度」などとたかをくくれるような簡単な数字ではありません。社運を賭けても良いくらいの大きな数字であり大事業の展開を意味します。

    戦時には小さ過ぎ、平時には馬鹿になどとてもできない膨大な数字ということで、この揺れ幅が日本の軍用機生産拡大の跡だとも言えます。

    また、零戦の生産性の悪さについては堀越二郎さん本人が「十七試艦上戦闘機計画要求書」の中で、過酷な性能要求を達成するために生産性を無視する設計を行ったと述べていますので、製造側にとっても事変後に試作発注される海軍の戦闘機に対して「どうせ1000機程度だから」といった認識は無かったのではないかと思います。

    BUN

  5. 九六艦戦の生産総数が1000機。
    山本五十六が対米開戦までにこれだけの数の零戦を備えておく必要がある、といったのが1000機。
    みたいな感じですね。


  6. 皆さま、ご回答ありがとうございます。この質問の趣旨は、零戦以外の戦闘機開発計画が全てうまくいっていたらどの機種が最多量産されていただろうかとの疑問からです。やっぱり零戦だったのでしょうか?
    つかだ

  7. 1000機 という数字の重みが短期間で大きく変わって行く時期ですから、
    軍用機生産に関する常識が大きく変化して行く時代を踏まえないと変な話になっちゃいますね。

    零戦の1万機という生産実績は昭和19年以降の増産計画と雷電には影響されない中島での生産分が大きな割合を占めていますから、雷電が計画通りの性能を発揮したと考えるなら、18年度後半以降の三菱での零戦生産分を雷電に置き換えて考えても良いでしょう。
    BUN

  8. 「零戦以外の戦闘機開発計画が全てうまくいっていたら」という仮定はちょっと難しいんです。
    なぜなら雷電が上手く行かないので紫電が促進され、十七試陸戦/十八試陸戦/陣風や烈風が上手く行かないので紫電改に力が注がれ、といった具合に見込みの薄れた計画を他の計画が補いながら進んでいるからです。
    BUN

  9. 当初計画で1000機は妥当な数字と思われます。

    海軍軍備計画で昭和16年9月に建てられたD計画(昭和17年度着手〜21年度末完成)では、計画完成時陸上戦闘機22隊(528機)、艦戦3.5隊(84機)、戦闘兼爆撃機13隊(312機・・機種?)の予定です。
    とおり

  10. D計画の陸戦は零戦ではないし、戦兼爆は月光の類ですよ。
    BUN

  11. しかも、この数字は新規増勢の67隊(航空隊ではなく戦闘機なら常用18機補用4機が1隊と数える)の内訳です。計画完成時に67隊約1000機の戦闘機隊という意味ではありません。
    BUN

  12. 雷電の何がうまくいったらこの場合の「うまくいった」ことになるのかも幅がありますね。
    速度は出るけど視界は悪いままなのか、もっと汎用性のある機体として完成しているのか。


  13. 訂正ありがとうございます。数字は戦史叢書<2>p12からでした。要注意です。
    C計画(昭和13年9月)艦戦104機増
    D計画(上記)で、実際は開戦時零戦350機弱ですから予算は零戦の配備に使われていると考えます。当初計画1000機程度というのはどんぶりでしょうが、言い当てていると思います。
    http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/201103/04.pdf
    に概観が若干わかりやすいですが、零戦に関してはちょっとすっきりしないところです。
    とおり

  14. 18年8月まで、つまり本来なら後継機が出てくるはずであり、実際にはA6M5への切り替わり時期にあたった頃までに造られた零戦実数は、三菱1700強、中島1400弱、合わせて3000ちょっと。
    20年8月までの三菱・中島の単座戦闘機生産能力の残り7000のうち後半は十七試のどれかの戦闘機に回されるとしたら、雷電も行って4000くらいかなあ。

    1機種3000〜4000機くらいの生産で次の新機種に切り替わってゆくくらいが、当時の日本の生産能力からすればよい感じのペースだったのかもしれません。


  15. >13
    軍備計画は軍艦の新造あたりなら誰でも分るのですが、航空軍備だとちゃんと読むだけで大変ですね。

    この67隊の増勢案というのは「平時兵力」で、「戦時兵力」はこの2倍になります。十七年度計画は開戦決意と同時に実行着手でしたから戦時兵力が本来の計画となります。
    そして掲げられた機数は増勢する部隊の常用機と補用機の合計でしかなく、これを維持するために必要な年度ごとの補給機数などには触れていません。
    補給機数は平時でも年間100%程度必要で、戦時であれば勝ち戦を続けていても年間200%は必須、少し激しく戦えば300%の補給が必要になります。

    18年8月の三菱零戦の終了計画から2年間の間に7000機弱の零戦を生産して終戦時に残った零戦、零練戦が約1000機ですから、均せば大まかな具合がわかると思います。

    ということで、軍備計画の機数を上げてもあまり意味が無いということです。

    BUN

  16. (雑感】
    しかし、そんなに何もかも思惑通りはかどる世の中で、やはり戦時体制は20年8月までだったのか。
    そんなに都合よく行くのならそもそも戦争もやってなけりゃいいじゃん、などとも。


  17. C計画までは(というか開戦前までは)、事変を抱えつつも軍備計画(すなわち予算)と実際の生産は整合性を以て語れると思います。その整合性の範囲内で、大車輪で計画を前倒しで生産した結果が開戦時の零戦350機弱という成果でしょう。

    事変中の損耗率に関しては、零戦は意外に低そうです(単純計算では<30%)。もちろん開戦までの話です。

    ちなみにミッドウエーの被害を受けて検討され直した生産計画では、17年度の損耗率を年間70%と見込んでいます(全体の数字なので戦闘機はもっと高いと思われますが、ここまでの損耗を反映している数字なのでしょう)。
    とおり

  18. なんとなく気づかれているかと思いますが、毎日平均30分飛ぶだけで、1年で立派なポンコツ機になってしまうのが当時の戦闘機です。平時の補給が年間ほぼ100%で予算化されているのはその為です。
    またC計画では戦時計画と平時計画で数字が倍も異なったり、消耗機の補充を臨時軍事予算で行っていたり、母艦機の初度調達を新造母艦の建造費に組み入れていたりする部分があるので、一般に紹介されることが多い計画の表面に出て来る数字だけを相手にしていては根本が危うくなります。
    BUN

  19. 海軍単発戦闘機の生産実績は昭和12年度 200機 13年度 341機 14年度 300機、15年度310機、16年度 810機 17年度 1702機、18年度 3777機、19年度 4818機 といった具合に拡大しています。もし零戦の生産が当初1000機であるなら、17年度に入ると予定数に達してしまい、D計画も何もあったものではありません。
    けれども、設計時の12年度には1000機の生産というのは少ないどころか精一杯の受注であることもわかります。この落差が事変前と大東亜戦争期との状況の違いです。
    「多い」「少ない」の基準が急速に変わって行く数年間なのです。

    BUN

  20. 零戦の当初生産数を計るものがあるとすれば、昭和13年11月15日付「海軍生産能力第一次拡充示達」(完成目標15年度末、マル4計画実施用)であり、これに基づいて整備されるべき生産能力は、三菱の艦上戦闘機を「35機/月」としています。
    (第一次があれば第二次も当然あるのですが、これは完成目標18年3月末日、三菱の月産数を「小型62機、戦時50%増」としていますから、本来ならば雷電以降用を想定した生産能力であることになりますから、ここでは考えに含めないことにします)

    一方で、昭和16年7月の「昭和十六・十七年度海軍機体作製計画」では、零戦の既注文数量を15年度315機、16年度45機0としており、生産能力第一次拡充示達が実現することが前提になっているようです。これに基づけば、18年4月までの三菱での零戦生産数の既製造分と予定数の合計は約1000機になります。

    こうして見ると「1000機」という数字がまったく根拠がなかったものであるようにも思われますが、と同時に、戦時ともなれば躊躇なく増産、さらに他社での転換生産が行われていることも大事です。
    16年7月には月産33〜35機程度を予定していながら、戦時体制突入が確定的となった9月以降この数字は増加され、2ヵ月後には月産60機以上がスタンダードなペースとして実現できています。実際には当初予定の1.5倍程度を完成させています。


  21. すみません。「45機0」→「450機」


  22. ともあれ、ここでのお題に即するなら、零戦が「最大でも1,000機程度の量産しか計画されていなかった」わけではなく、「最大」ということでは戦時生産分としての1.5倍程度の伸びしろが見込まれていたのだろうということになりますし、また、総数を1万機とするならば中島での生産分が加わります。

    付け加えておきますと、
    >17の「C計画までは(というか開戦前までは)、事変を抱えつつも軍備計画(すなわち予算)と実際の生産は整合性を以て語れると思います。」
    とありますが、13年以降は「事変を抱えつつも」という単純な話ではなく、それまでは「月産能力小型機20機」と調査されていた三菱の生産力を国家総動員法を根拠とした拡充示達によって統制された、いわば本来ならば自然には成し得ないことを強制された上で「35機」に引き上げようとしてのものなのです。

    こうした生産能力拡充示達は17年8月の第三次に至り、三菱の小型機生産能力を167機/月にまで要求するようになります。この場合の「小型機」の内容は「J2M2 A7M1級」とされていて、雷電のみの数字をはかるのは困難です。


  23. >20
    「まったく根拠がなかったものであるようにも」
     ↓
    「まったく根拠がなかったわけではないようにも」


  24. 第三次生産能力拡充示達が要求する167機/月は、だいたい年間2000機ですね。
    仮に18年4月から20年3月までの間、雷電の生産がこのペースで続くとして、この間の三菱の小型機生産総数見積もりは4000機。(が置き換わるとします)
    そのうち烈風の19年度発注内示が450機ですから、雷電は3550機。
    実際には18年4月の時点では月産90機くらいのはずですから、まあ、「うまくいった」場合の雷電の生産総数はやはり3000機くらいという感じでしょうか。
    いろいろ勘案してみても、結局たどり着くのは3000〜4000くらいという数字であるようです。この辺が妥当なところなのだと思います。


  25. またまたすみません。
    (が置き換わるとします)は(仮定として閃電もうまく行くのでしょうから20年度はこれに雷電の生産が置き換わるとします)のつもりでした。



  26. 18年10月の段階で19年度の三菱での零戦生産1400機のうち1200機を雷電に置き換えるという計画ですから、終戦まで2000機から3000機の間でしょう。

    零戦の「1000機」という話は何処の何を他の要素を考えずに見ると概ね1000機になる、という心霊写真の解説のようなものではないかと思います。
    BUN

  27. >23, 26

    なかなか難解な文章ですが、要は「数字はおおむね妥当」という結論なんでしょうか。であれば特に意義はないです。
    それとも何か別な資料があるのでしょうか?

    そもそも私が問題にしているのは当初の「計画」なので、軍備計画と対比できるはずだと述べただけです。軍の組織もお役所ですから、軍備計画の予算と達成数値は航空本部(あるいは実施機関)に下達され、航空本部も当然その中で動いていたはずだ=つまり整合性があるはず、というあたりまえの推論を述べているに過ぎません。

    D計画を出したのはちょっと誤解を招いてしまいましたが、言いたかったのは以下のようなことです。まあ、お題の「最大でも1000機程度の計画」という数値が小さいなと感じたわけです。ところが軍備計画を紐解いてみると、開戦が極めて濃厚になった時期に決まったD計画ですら、数値は結構小さいのだな(5カ年計画の数字なので)ということがわかったわけです。ということで、数字が小さい(だけどそれは妥当な数値)という印象を補完するために持ち出しました。

    質問者さんの元ネタが何を典拠にしていたか(つまり元ネタの元ネタ)にはちょっと興味があります。



    とおり

  28. 意義 → 異議 でした。すみません。
    とおり

  29. >27
    1000機は平時計画の数字であり、戦時には1.5倍から1.8倍弱程度まで膨らむことが当初から見込まれていた、1000機がリミットであるとは考えられていなかった、ということです。



Back