1353 既出だったら済みません。二号零戦(三二型)の航続距離問題が二二型で解決されて以降も、中島飛行機で旧式化した二一型の生産が延々と続けられたのは何故でしょうか。

栄一二型から二一型、零戦二一型から二二型への生産ライン転換はそれ程大事とは思えませんが、やはり生産空白期間を作らないためだったのでしょうか。
蛍菜

  1. 以前にも、書いた記憶がありますが
    「真実一路」の「零戦再考」。
    大変興味深く、且つ面白かったですよ。
    出たきりのモデラー

  2. 当時、零戦の生産は終了する方向で、二一型だけが艦戦として残されるという状態だったのです。
    後からみると二一型が、二号戦が出た後も延々と続いたというように見えますが、だらだらと続いたのは二号戦(二二型)の方です。
    また二二型は、二号戦が本来目指した性能向上を達成している型ではありませんので、十分な性能でない二二型を中島の生産ラインを変更してまで生産する意味も小さかったのでしょう。
    雷電が失敗し、二号戦の性能向上を実施する必要があり、五二型で二号戦として完成すると、中島の生産も切り替えられています。
    ケンジ

  3. 二号零戦問題が起きた時期が17年の8月だった為、17年度後半(10月)からの中島でのA6M3への生産切替が中止され、毎年度この時期に決定する翌年度の生産計画が大幅に変更されます。
    18年度の内示が三菱は三二型、中島は二一型で行われたため、中島では21型が18年度一杯、19年4月までの間、二一型が生産され続けます。
    二一型から二二型への転換は簡単ではなく、装備する発動機の発注から変えて行かねばなりませんから実際には「大事」なのです。
    栄は二式陸偵と共に二〇型シリーズへ生産を切り替えたいところへ零戦二一型の生産計画が延長されたため、旧型となった栄一二型を大規模に継続しなければならないのですから、大変なのです。
    中島では一旦、命じられ、準備された零戦二一型の年度発注分を消化するまで詩型への全面転換ができなかったのです。
    これは空母用、といった話ではまったくありません。

    また三菱社内では三二型以降の零戦は「A6M3の何号機」といった呼び方をすることがあります。二二型も五二型も基本的には同じ型式という考え方です。
    18年夏の零戦五二型への転換は「三二型」の生産計画に乗っているのです。

    そして17年度半ばに「零戦の生産中止」は見込まれていません。
    雷電の状況を見ればわかるようにそんな危ない計画は立てられる時期ではないのです。
    三菱が雷電に集中して零戦をフェイドアウトしつつ中島で五二型を継続、という計画は、一年あとの18年秋に19年度の生産計画が立案された際のことなのです。

    よって、

    ・三菱の「二号戦」生産はダラダラ続いたのではなく、途中でやめられなかったのは中島での二一型生産。
    ・二二型の性能向上、二一型の旧式化は認識されていたけれど生産を中止できなかった。
    ・雷電が零戦の生産にとって代わるとの話は18年度ではなく、19年度計画からのことで、さらに雷電の失敗が明らかになり計画が緊急修正されて大混乱を起こすの19年が明けてから。

    2.のケンジさんのお話は18年度計画と19年度計画の立案時を一緒にしてしまっているので、部分的には良いお話しなんですが、総体としては大きく間違っています。
    BUN

  4. 皆様、ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。
    蛍菜


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