1368 疾風試作一号機の主翼武装について質問なのですが、2017年1月号の丸の飛燕特集の時に試作一号機の19u翼には20oホ5は搭載できなかったという記述がありました。
しかしながら昭和16年10月の富田技師によって作成された次期飛行機試作状況なる表の中ではすでに後に鍾馗III型と計画統合されるキ63の要求の時点で主翼にホ5を搭載することが要求されており、昭和17年の航技報に記載された重戦研究計画においても次期主力戦闘機は胴体には13o機関砲2門、主翼には20o機関砲2門搭載してエンジンはハ145(時期的に誉21型のこと?)とすることを中島に要求していました。
このように事あるごとに次世代機に20oクラスを搭載することを要求してきて、中島もそれに答えられるように設計をしていたのでしょうが、実際に疾風試作一号機で主翼に20oクラスを搭載できない設計だったのはあり得るのでしょうか…?
疾風の19u翼は新規開発ではなく鍾馗III型の19u翼の設計からの流用だったという話もありますし、その鍾馗III型は武装がキ63時代から20oクラスを搭載することを求められて、実際に甲では20o4門と言われてますから設計上では搭載できると個人的に思うんですけど…
それとも鍾馗III型も20o搭載できなかったのでしょうか?一応第一復員局が1947年に作成した陸軍航空技術沿革史では鍾馗III型の武装がホ103×4となってますが、これもにわかには信じがたいと言いますか…
リーン

  1. 仰る通り、キ44IIIにはホ五はできなかったのではないかと推測しています。
    基礎要項を策定した時期にはホ五は完成していないため、艤装上の問題が見えていなかったので、実際に武装を搭載する主翼は拡大されたと考えています。
    そのためにキ84は一号機のみが旧主翼で組み立てられ、続く二号機ですぐに拡大主翼へと変更され、もともとこの形で量産する計画の無い一号機は「キ84」と呼ばれ、拡大主翼を装備した二号機以降が「キ84 I」即ちキ84一型と呼ばれているという解釈です。
    初めて航空本部主導で試作されたホ五の開発経緯と、一号機のみに取り付けられた小面積主翼、そして初飛行が行われる前の段階で既に量産を意識していないと考えられる一号機と二号機の名称の違い、といった要素を説明するには今のところそれしかないと思っています。
    性能低下をしのんで主翼面積を拡大した例はキ61 IIにも見られますが、これもホ五を主翼内に収めるための面積拡大であることが確認できます。
    BUN

  2. 返答ありがとうございます
    疾風開発中にホ5が出来上がったので設計変更が間に合わなかったから試作一号機には搭載のための設計変更をやらなかったということですか…
    しかし中島はバルジ式を採用したりしてなかったのですか?
    確かに中島はガンポッド式やバルジを好まなかったそうですけど、疾風102号機の丙型30mm搭載の写真だと空薬莢受け以外にもちょっとモッコリしたバルジのようなものが見受けられるんですけど、これを試作一号機にやったということは無いでしょうか?

    それと鍾馗3型の方ですけど、昭和46年に元第一陸軍航空技術研究所の科長であった安藤技師が作成した資料ですとキ44三型は武装が20mm2門37mm2門っていう乙型相当の武装になってるんですね
    携わっていたであろう方が鍾馗と屠龍を混同したとは考えにくいですし、そうなると鍾馗はホ5よりも嵩張るホ203を搭載してたことになりそうなんですがこれは一体…横に倒したら入るという話もあるそうですが…
    (海外の資料だと何故か主翼にホ5が搭載できなかったからマウザーを搭載して試験したということになってた…)
    リーン

  3. バルジについて
    これから試作機を製作するのになぜいたずらに抵抗増大、速度低下を招くバルジを設けるのか、落ち着いて考えてみてください。主翼を再設計した方が遥かに合理的です。

    それから「日本陸軍機の計画物語」は貴重な情報が沢山収録されていますが、それ故に気を付けなければならない点があります。
    陸軍航空技術研究所で安藤重雄さんが担っていた仕事は基礎計画の策定ですが、これは「できる」ことを示しているのではなく「やりたい」ことを概略でまとめてその裏付けを推算しているので、海軍で言えば「性能標準」に似た雰囲気がありますが、もっと仮想に近い性格を持っています。

    例えばこの本の中に昭和16年8月26日「研究機主要諸元一覧表」が掲載されていますが、ここの重戦案には発動機がハ45であるにもかかわらず、武装はホ五をモーターカノンとしてプロペラ軸内発射としています。
    発動機とプロペラの現状では明らかに「できる」訳が無い話です。

    それが基礎計画というもので、実際に製作できるかどうかを置いて、まず「やりたい」ことに向けて基礎的な計算をしています。
    必ずしもここに書かれている事に基づいて実機の設計が行われているのではなく、「やりたい」ことの上限が示されているので、そうした意味で貴重であっても、これで試作機の細かい仕様が決まっている訳ではありません。
    けれどもこの重戦案を見ても、20oの翼内装備を考え始めたのは16年秋以降なんだな、と推測できるので重宝するのです。

    この本には試作がいつ、どのように進捗したのか、まったく触れていません。
    それはそうした内容の資料ではなく、安藤重雄さんが伝えたかったテーマから外れるからですが、キ44IIIをキ84とするとの決議は16年12月27日に行われていて、キ84としての中島への内示は12月29日に下されています。
    ということはそれ以前にキ44IIIの研究は中島に伝えられている事を示しています。
    翼内へのホ五装備は16年の9月から12月までの間の何処かの時点で決まっていると考えられます。19uの主翼はそうした曖昧な時期に基礎設計が行われていたものと考えられるのです。キ84の一号機はそうした意味で旧キ44第二次性能向上機のとキ84の中間的な存在となっているのでしょう。

    それがこの本に収録されている資料をちゃんと読むにはそれを補完する資料が必要になって来るという厄介な部分です。
    これから先にもまだまだ楽しいことが残っている、ということですね。
    BUN

  4. あ、いえ、試作一号機にバルジ云々は設計段階のことではなくて、陸軍から変換されたあとに中島でテストする時のこと言ってました。
    紛らわしくて申し訳ありません…
    自分が聞いた話ですと試作一号機は完成後に陸軍に引き渡したあと、中島で別のテストをするために返還されて
    その際に武装した可能性がある。そしてその武装構成は甲型とも異なるものだったっていう話なんですね
    疾風の丙型の試作機では小さいながらもバルジがあったのでもしかしたら…と思った限りです。

    あと疾風の話から逸れるんですけど、鍾馗3型がホ5用のプロペラ同調装置のテストヘッドにされたという話は事実でしょうか?
    海外の資料ですと、18年4月に川崎がホ5用同調装置の開発に成功して5月に陸軍に対して説明会を行ったあとに陸軍から中島に対してこのプロペラ同調装置のテストを命じられて、7月に中島がこの説明会を受けたあとに鍾馗3型をこのテストに使い、その試験データが疾風乙型に活かされたとあるんです。
    二宮さんの回顧でもこの説明会について触れてあったので戯れ言と切り捨てようにも妙にしっくり来てしまって…
    リーン


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