1402 お久しぶりです。毎度お世話になっています。
今回疑問に思ったのは、プラモデルで登場する真珠湾攻撃時の志賀大尉の零戦二一型、AII-105についてです。この機体では飛行隊長を示す三本線がありますが、彼は大尉であり、階級的に飛行隊長は無理だと思うのです。 また、真珠湾攻撃時に加賀では唯一少佐階級の搭乗員で艦攻隊の橋口 喬 少佐が居り、この方が階級上必然的に飛行隊長だとするのが私の根拠です。つまり、真珠湾攻撃時の志賀大尉機は分隊長を示す二本線が実際のところではないでしょうか。また、志賀大尉は後に少佐階級でありながら信濃飛行長や343空飛行長を任じられていますが、本来飛行長は中佐であって少佐が飛行長になることがあったのでしょうか?

みかん段ボール

  1. 真珠湾攻撃時の志賀大尉の零戦二一型、AII-105はハセガワ製の模型など幾つかで三本線になっていますね。
    ご指摘のとおり、志賀大尉は真珠湾攻撃の時点では分隊長に過ぎず、飛行隊長ではありません。
    当時の飛行隊長は舟木忠夫少佐(兵54期)で、直後の舟木少佐転任後に志賀大尉が昇格する形で大尉のまま飛行隊長に補されているようです。
    なお、押尾一彦氏考証のモデルアート社刊「真珠湾攻撃隊」では、赤線2本の分隊長装束の零戦塗装図が紹介されています。
    だご猫

  2.  加賀の飛行隊長については1940年11月1日橋口喬(兵56)少佐同15日に舟木忠夫(兵54)少佐が発令されているのが海軍辞令公報で確認できるのですが、舟木少佐がいつまでその任にあったが分かりません。また、舟木少佐が発令された15日の辞令公報には橋口少佐の異動が掲載されていないので41年4月20日に楠美正(兵57)少佐と交代するまで任にあったのかなと思うのですが、同一艦に2人の飛行隊長というのがありえるのかなと疑問に思っております。
     ただ、志賀大尉については、41年4月1日に発令されてから42年4月15日に館山航空隊分隊長に転任するまで加賀分隊長であり、その間の飛行隊長は舟木少佐か橋口少佐、もしくは両名ですので、2で仰られるように飛行隊長となっていたとしたら、臨時に任命されたということになります。
     飛行長については、巡洋艦のそれは少佐が普通です。
     
    hush

  3. 真珠湾攻撃時の志賀大尉の零戦二一型、AII-105はハセガワ製の模型など幾つかで三本線になっていますね。
    ご指摘のとおり、志賀大尉は真珠湾攻撃の時点では分隊長に過ぎず、飛行隊長ではありません。
    当時の飛行隊長は舟木忠夫少佐(兵54期)で、直後の舟木少佐転任後に志賀大尉が昇格する形で大尉のまま飛行隊長に補されているようです。
    なお、押尾一彦氏考証のモデルアート社刊「真珠湾攻撃隊」では、赤線2本の分隊長装束の零戦塗装図が紹介されています。
    だご猫

  4.  アジア歴史資料センターで定員を調べますと、たとえばリファレンス番号C13071970900には、航空母艦飛行長、中少佐とあり、定数は1となっております。したがって、巡洋艦だけなく、空母の飛行長も少佐で可となりますが、2で申しました橋口、舟木両少佐については、特例でもない限り、何らかの異動があったということになります。ただ、辞令公報はあまりに膨大な量ですので、確認はまだできておりません。
     
    hush

  5. hushさん、ありがとうございます。やはり志賀氏が真珠湾攻撃時に飛行隊長では無いので、尾翼に三本入った零戦は真珠湾攻撃及び南方作戦時の機体とするのは考証的に間違いでしたか。しかし、hush氏の回答でふと疑問に思ったのですが、志賀大尉は1942年4月は舘山航空隊ではなく、隼鷹戦闘機隊の分隊長(飛行隊長だったり飛行長だったりとする書籍もありますが)では? 
    みかん段ボール

  6. >5
     アジア歴史資料センターの検索窓にC13072085100というリファレンス番号を打ち込んでもらうと辞令公報がpdfファイルで出てきますが、その40ページ目に加賀分隊長海軍大尉志賀淑雄 補館山海軍航空隊分隊長と出てきます。
     それ以外の略歴は http://hush.gooside.com/name/Biography/221shi.html#anchor15015 に書いたとおりですが、この時、隼鷹は就役前ですので、同艦分隊長の含みを持った転任であろうと思います。
     なお、隼鷹の飛行長は43年1月7日に橋口喬(兵56)少佐に交代するまで崎長嘉郎(兵54)少佐が務めておりますので、分隊長、後に飛行隊長が正しいと思われます。
     
    hush


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