1725 |
第一次大戦時の飛行機による弾着観測について質問です。 大戦前からフランス軍などは飛行機を弾着観測に使っていたそうですね。 この時代は航空無線機がないですが、どうやって観測報告をしていたんでしょうか? 気球を使っていた時代、電話が登場する前は地上にメモを投下していたようです。 なので、飛行機での観測の場合もメモの投下による報告で、そのために弾着地点と地上の味方部隊の所を往復していたと考えています。 それとも、発行信号や手旗信号でしょうか? 調べていくと、航空無線機は1917年のブレゲー14から使えるようになったとわかりました。 酔来亭天福 |
- 大阪朝日新聞の座談会 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00323906&TYPE=HTML_FILE&POS=1 (二)青島戦に初母艦"飛行服"にはシャツ三枚の中で、和田秀穂海軍中将が「飛びながら飛行機の上で手を離して起ち上ったらどうなるかといろいろ研究しました」、「海軍では軍艦との間に旗で話をする、つまり手旗信号をしなければならぬという必要からでした」とありますので、手旗信号は使っていたようです。
青島戦の記録に載っていたようにも思いますので、そちらを探されるとより確定的な答えが出てくるかもしれません。
hush
https://www.iwm.org.uk/learning/resources/what-impact-did-the-first-world-war-have-on-aircraft-and-aerial-warfare
上記の上から三番目の画像に(メッセージストリーマー)が有ります。
簡単な説明も。
百九
こちらでした。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Aviation_durant_la_Premi%C3%A8re_Guerre_mondiale
上記に、
(1915 年 3 月から、2 人乗りの航空機には、モールス信号を使用した通信を可能にする原始的な無線機が装備されていましたが、受信機はありませんでした。)とあります。
百九
- hush様、百九様、回答ありがとうございました。
やはり基本はメモの投下ですね。メッセージストリーマーというのは投下場所をわかりやすくする目印のようなものですかね。
極初期には敵味方識別の問題でうまく行かなかったことと、
無線機が使われ始めるのは1915年ということ等、色々わかりました。
メモの投下だと相手が船の場合は海に落ちちゃうから手旗信号なんでしょうね。
酔来亭天福
- >4
鄭重な挨拶痛み入ります。
ただ、第1次大戦あたりだと砲の射撃速度というのはかなり上がってきていて、シュナイダーの75mm砲M1897だと1分間に15発となっています。弾着観測に航空機ということは重砲だとは思いますが、パリ砲でも15分間隔で着弾しています。そうなると、一々、射撃指揮所上空まで戻ってメモを投下するのでは意味がないのではでしょうか。むしろ、リアルタイムでの報告が必要になるのではないかと思います。このため、機内から送信できる無線機が必要になり、戦争2年目には間に合わせたということでしょうが、そういうものを自力で開発できない日本の場合は、手旗信号や機体のバンク等で報せていたのではないかと思っております。
hush
- 第一次大戦前半の野戦砲兵は大まかに言えば軽砲中心で直接射撃が主体で、しかも間接射撃用の観測手段としては気球があったので、地上と常時連絡が取れる気球による観測が長く主力を担っています。
何となく想像しがちな飛行機による観測で、射撃中の砲兵が照準を修正するといったことは殆ど発生していません。もちろん砲兵観測に飛行機を利用することは英仏独すべての陸軍が開戦前から研究してはいましたが、気球に優る機能を発揮するには至りません。だから1918年春の独軍攻勢まで、観測気球の撃墜が重視されていたのです。
戦艦大和の零式観測機が行おうとしていたような弾着観測は実施できず、偵察機は目標の捜索(捜索は未発見の敵を探すことです)や砲撃の効果確認が主たる任務で、それらの情報を持ち帰り、砲兵司令部に隣接する臨時飛行場に降り立ってから口頭で報告しても間に合ったのです。
飛行機がライブで砲撃の修正を行っていたわけではない、ということを覚えておいてください。
BUN
- 少し長いですが追加します。
First World War.com
https://www.firstworldwar.com/airwar/observation.htm
砲兵観測にも 2 人の乗組員が必要でした。複雑なビジネスでした。無線装置は、飛行機が送信機と受信機の両方を搭載するには大きすぎて重すぎたため、航空機は送信機のみを搭載して飛行しました。
飛行機は特定の砲兵隊にサービスを提供し、離陸前に砲台の目標が確認されました。空中にいると、オブザーバーは自分のバッテリーとターゲットを特定する必要がありました。次に、発射を命じるメッセージを送信します。彼は通常、砲弾が発射されてから標的の近くで爆​​発するまでの時間を測定することで、自分の砲台に属する砲弾を区別することができました。
1915 年以降、モールス信号で送信された修正は「クロック コード」に含まれていました。文字はターゲットからの距離を示すために使用されました (文字 Y、Z、A、B、C、D、E、および F は、ターゲットの距離を表します)。それぞれ 10、25、50、100、200、300、400、500 ヤード) と、ターゲットからの方向を表す 1 〜 12 の範囲の数字 (12 はターゲットの真北を示し、6 はターゲットの真南を示します)目標)。
第一次世界大戦の展開
https://nzhistory.govt.nz/war/war-in-the-air/first-world-war
航空機は砲兵観測任務で砲台を探し始めました。通信を改善するために、RFC ワイヤレス オペレーターは砲兵隊に参加して、航空機と砲手の間で情報を中継しました。1915 年、イギリスは標的を時計の文字盤として視覚化する洗練されたシステムを採用しました。飛行機のオブザーバーは、この「クロックコード」に関連して砲弾の落下を説明し、無線電信で砲手に修正を送信しました。
百九
- 訂正です。
爆​​発するまで→爆発するまで
百九
- hush様、百九様、再度の回答ありがとうございました。
無線機を使い始めてからも、やり方を色々研究したわけですね。これなら数文字程度の送信で済みますね。数文字なら手旗でも問題なさそうです。
BUN様、回答ありがとうございました。
無線機を使っても最後まで気球に取って代わることはできなかったと。
訓練や実験でやり方を作り上げても、実際の戦場ではなかなかうまくいかないのでしょうね。
もしかして無線妨害とかあったのかな?
酔来亭天福
- 非常に重たいpdfですが、日本航空史(明治大正篇) http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/History_of_Japanese_Aviation_Meiji-Taisho_v2.pdf の101ページに航空機からの手旗信号、報告球について、149ページに第2艦隊の青島砲撃に際して弾着観測の命令を受けたとあります。
この弾着観測に関しては委細が書かれていませんが、BUN氏が6に書かれているようなものではなかったかと思っております。
気球による観測は海軍でも行っており、こちらは有線による報告はできますが、気流で気球がとんでもない動きをするために酔うものが続出し、熟練が必要だったと聞いたことがあります。
hush
- 飛行機からの砲兵観測は理想としては開戦前から存在し、むしろ軍隊が飛行機を装備する大きな理由ともなっていましたが、その実現に向けての努力は継続され、機材の改良も進んではいても、気球観測を代替する能力は最後まで得られていません。やろうとしていたことと実際にやっていたこととは違う、ということです。
第一次大戦時のフランダースの戦場では攻勢は敵観測気球線(気球はポツンと一基を昇騰するわけではありません)への戦闘機による一斉攻撃から始まるのが一般的です。これは敵が行う阻止砲撃をライブで観測修正させないためで、気球がその任務を担っており、敵偵察機にはそれができなかったからです。
BUN
- それから、砲撃中の観測偵察は敵味方の砲弾がかき乱した気流の中を飛ぶので、安定した飛行はできず、繋留気球のほうがよほど安定して観測できたのです。
主力艦の巨砲の弾着を観測するのと、野戦の砲兵観測はやり方も任務もちょっと違う、ということです。
それでも砲兵が飛行機を手放さなかったのは、飛行機は気球にはできない捜索能力に長けていたのが大きな理由です。日々移動する敵砲兵陣地を写真偵察で探し出し、連日の動きの中から翌日の移動先を予想して対砲兵戦の計画を立てるといった使われ方は固定された繋留気球にはできない仕事でもあります。
BUN
- hush様、情報の紹介ありがとうございます。
こんなすごい大著がフリーで公開されてるとはラッキーです。
報告球とはメッセージストリーマのことで、海に落ちないよう船に落とそうとしたのですね。
また、無線機も試そうとしたけど結局手旗になったと。
砲撃前後の目標の状況確認も含めて弾着観測という意味かもしれないのですね。
BUN様、ご多忙の中、再回答ありがとうございます。
うまくいかなかった理由は意外なものでした。
砲弾の起こす乱気流のせいで砲撃中の観測ができないとは!
なるほど当時の飛行機は軽いし馬力も弱いですからね。
後に飛行機の性能が上がってきてようやく砲撃中の観測ができるようになったということかな。無線機の問題じゃないのですね。
気球から10キロも20キロも先は見づらいだろうと思ってましたが、複数の気球でマルチアングルで観測するんですね。
そして砲撃中は気球の護衛が飛行機の仕事になると。
回答頂いた皆様、重ね重ねありがとうございました。
酔来亭天福
- 当時の野戦砲兵の射程は意外に短くて、縦深10q以内です。
これは野砲(=75o級)も主な重砲も大きく変わりません。
20qも30qも後方を「観測」しても何の意味も無いのです。
阻止砲撃は敵の突撃第一波に対して行うよりもむしろ第二波の追及を粉砕するためのもので、それは気球線(最前線の後方5q以内)からは見える範囲です。
だからこそ戦闘が起こって位置が判明している第一波よりも、敵がこれから兵力を投入する第二波を撃破しなければならないので、航空機による捜索に価値が出るのです。敵の偵察機を自由に活動させない戦闘機の役割が重視されるのはこうした事情です。
BUN
- 詳細な解説ありがとうございます。
はっきりした目的と役割分担があるのですね。
酔来亭天福