1751 戦時中、三菱重工名古屋工場では完成後の機体を陸軍機はエンジンつけたままで輸送、海軍機はエンジンを外して輸送したと聞きました
対岸に飛行場へ専用船で運ばれることもある海軍機をエンジンつけて輸送ならわかるのですが逆は理解出来ません。何故でしょうか?
ぼうふら

  1.  すいません、逆ではないでしょうか。 http://hush.gooside.com/suzuka/suzuka.html 「三重県内の戦時航空機生産について」に載せましたように、三菱重工業名古屋航空機製作所の海軍機の機体は東洋紡四日市工場で生産されていると思われるからです。つまり、名古屋からは発動機を出し、四日市で作った機体と列車輸送して鈴鹿の三菱航空機で合体させ、鈴鹿航空隊から各地に空輸されたというわけです。実際、 https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/33/2/33_2_23/_pdf 16ページの表には名古屋航空機製作所第3製作所四日市とあり、その主製品として零戦、雷電とあります。
     名古屋市大江の工場は初期の複葉機程度なら離陸できたかもしれませんが、能力不足となり、岐阜県各務原の飛行場まで牛車で運んでいたのは有名です。後には馬での輸送になっていますが、この飛行場は陸軍のものですので、海軍は現在のJRと近鉄等の線路を利用する方向へ行ったようです。機銃の鈴鹿海軍工廠、発動機の津海軍工廠の建設はその線に沿ったものであり、津市内の紡績工場が航空機関連の軍事工場に転用されたのも同様の理由と考えています。
     ところで、「海軍機はエンジンを外して輸送した」の出典はどちらでしょうか?たまたま、地元の戦災を調べていて埒外の航空機生産を調べていたものですから、興味があります。もし、よろしければご教示ください。
     
    hush

  2. 四日市・鈴鹿工場、鈴鹿整備工場は生産能力拡充示達に対応したものです。
    本来は、零戦を含めた海軍機は大江で生産され、艀で海上輸送され、港整備工場で整備され、県営名古屋飛行場から鈴鹿海軍基地に飛ばされていました。
    港・鈴鹿の両整備工場の意味を考えて見るのも良いのではないかと思います。


  3. >2
     御指摘ありがとうございます。
     実は書いた直後に笠井雅直著「国産航空機の歴史:零戦・隼からYS11まで(吉川弘文館歴史文化ライブラリー 562)」を読んでいて、これは戦争後期にしか当てはまらないことを知り、書き直さなくてはと思っていたところです。
     また、名古屋航空機製作所で海軍機を担当した第1工作部と陸軍機を担当した第2工作部の人員に大きな差がなく、齟齬を来す部分があるとも思っておりました。
     その上で、御質問を考えますと、名古屋航空機製作所で使用するエンジンの製作は名古屋発動機製作所で行っていたからではないかと愚考しております。というのは、名古屋発動機製作所は名古屋市東区大幸、現在のナゴヤドームを含む一帯にあったからです。ここから大江の名古屋航空機製作所までどのようにして輸送していたか存じませんが、矢田川に接していますので、ここから庄内川を経て伊勢湾に運んでいたのではないかと思います。その場合、大江より先に港整備工場のある県営名古屋飛行場(埋立地、戦後、小牧空港に移転)にたどり着きます。したがって、海軍機の場合、ここでやはり名古屋港の干拓地である大江で製造した機体と合体させればよいわけですから、エンジンなしの機体となります。
     一方、陸軍機の場合は各務原まで輸送するので、大幸の近くを通るのですが、その間に工場がないのでエンジン付きとなったというふうに思っています。
     
    hush

  4. すみません、細かいことですが、三菱大江は名古屋港6号地埋立地です。


  5. >4
     はい、名古屋港6号地埋立地ですね。
     御指摘ありがとうございます。
     ちなみに http://underzero.net/graph/tz470/tz_470_001.jpg 右側上から2番目の6号地が大江、左下赤く塗られた部分が11号地です。
     
    hush


Back