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先日P51ムスタング(ママ)空戦記−第4戦闘航空群のエースたち―ジェイムス・A・グッドソン著という本を読んでいて、それまで英本土でスピットファイア(おそらくMk.9)に乗っていたアメリカ人義勇兵パイロットたちが、P51マスタングが配備されるや否や特に慣熟訓練もなく「自主的に」機種転換してしまう場面がありました。 日本でも片足のエース檜輿平大尉が、いきなり配備された五式戦を操縦する(彼には五式戦の原型である三式戦の操縦経験は無い)エピソードがあります。 洋の東西を問わず、ある程度の練達のベテランパイロットになると、初等転換訓練を経ずに新型機を飛ばす(乗りこなすとまでは言ってない)ことができるものなのでしょうか? 備後ピート |
- 質問を読み返して、あまりにも漠然として答えずらいと思いました。第二次大戦中に限るとし、同様のエピソードが他にもあるようでしたら、どうか教えてください。
備後ピート
- テスト・パイロットという人達がいるのですから、飛ばすだけならできるのではないでしょうか。
hush
- フィリピンの激戦から台湾に後退した隼の20戦隊が潮洲飛行場に居た時
隼が送られて来ず、新機を受領できない事に業を煮やし
屏東飛行場の掩体壕に放置された四式戦を闇夜に紛れて泥棒(陸路)
1夜で10機を獲得して20戦隊のマークを描き入れたそうです
「20戦隊には疾風を操縦した者も、整備の経験者もいなかった」のですが
操縦教範を勉強して戦隊長→中隊長→ベテランパイロットの順に数日間で乗りこなしたとの事
村岡戦隊長は、まもなく師団司令部に呼び出されて「馬鹿野郎!」と怒鳴られますが
ニヤリと笑って「よしよし、お前はいいことをやったぞ」と逆に褒められたそうです
光人社 陸軍特攻の記録 村岡英夫 P207〜P211
ガス欠
- それに該当するか解りませんが、ルーマニアトップエースのコンスタンティン・カンタクジノが
大戦末期のクーデターで連合軍側(イタリアの航空基地)への交渉へ向かった折、
帰りに自分の乗機のBf109G-6と基地にあったP-51Bを交換して載って自国へ帰ったと言うお話がありました。
結構前に書籍で観たのですが、「あー、ベテランいなると何でも乗りこなせるんだなあ」というのが当時の感想でしたね。
陸奥屋
- 後は、1942年10月前後に福生飛行場(現 横田)行われた陸海軍「互乗研究会」で
海軍のJ2M 雷電(当時は十四試局地戦闘機)に乗った日本陸軍パイロットの荒蒔義次少佐は、
座学?だけでJ2M 雷電の試験飛行を行い陸軍のキ44との比較を書き留めています。
陸奥屋
- 第二次大戦中の戦闘機の操縦方法は基本的にどれも同じじゃないでしょうか。
スピットファイアは操縦桿を手前に引くと機首が上がるがP-51は操縦桿を手前
に引くと機首が下がる、などということはないでしょう。(旧日本海軍機と旧
日本陸軍機ではスロットルレバーを動かす向きとエンジンの回転数の増減が逆
だったそうですが。)なので、戦闘機のパイロットが新型機を飛ばすのは難し
いことではなかったと思います。
Tempest
- 陸軍航空審査部のテストパイロット達は戦争初期に鹵獲された連合軍機を飛ばしてますね。
荒蒔義次少佐が一番有名ですが、けっこうすぐに飛ばしてしまう印象です。
実際には飛ばす前に地上滑走などで感覚を慣らすと思います。
初期の鹵獲機は占領地でマニュアル類が手に入ったと思いますが、昭和20年に中国戦線で不時着したP-51Cの場合、派遣された審査部のパイロットと整備将校は外国機に慣れていたため難なく修復、マニュアルなしで飛ばすことができました(捕虜の米国パイロットから始動手順などを聞いたようですが)。
>旧日本海軍機と旧日本陸軍機ではスロットルレバーを動かす向きとエンジンの回転数の増減が逆
九七式戦闘機の生産途中から海軍機と同じに変更されてます。
超音速
- wiki一式戦闘機より転載
異説あり、大日本絵画 ビルマ航空戦 上巻 梅本弘 :スロットルレバーの操作について64戦隊で戦った安田義人は1943年2月に隼一型から二型へ機種改変した際、「スロットルレバーが引きから押しに変わった事で戸惑ったものの大きな事故はなかった」(P242)と語り、また一型と二型が混在していた50戦隊においても、「スロットルレバーの操作が逆である事に困惑していた、特に緊急始動の際は両型の違いを見極めている暇がないため、どちらの型であっても一発で始動できるようスロットルレバーはいつも中間の位置に入れられていた」(P318)という。そして1943年7月頃には残存していた一型機もスロットルレバーを二型同様に改修され、操作法の差異に戸惑っていた操縦者や整備兵を喜ばせた。(P365)とある。
ガス欠