303 「長門型戦艦は、決戦海域に施設される秘密兵器一号連係機雷を回避するためにスプーンバウを採用した」とよく言われます。

では伊勢型戦艦や扶桑型戦艦など、スプーンバウを持たない艦艇は一号機雷使用時どう運用される予定だったのでしょうか?
(決戦海面に立ち入らず、スプーンバウ艦隊と別行動を取るのでしょうか?)

宜しくお願いいたします。
Ranchan

  1. >よく言われます。
     それを言っている方に直接お尋ねになれば一番早いのではないでしょうか。

     だけでは、ちょっと不親切かと思いますので少し補足を。

     艦首形状と一口に言っても様々なものがありますが、では連繋機雷の繋維索が引っかからないための具体的な形状の詳細はどの様なものであれば良いのでしょうか。 これを決定するには、実際に実験をしてデータを集めた上で検討をする必要がありますが、それはいつ行われたのでしょうか。 その様な記録が残されているのでしょうか。

     一号機雷の開発や用法については旧海軍自身が纏めた公式資料『帝国海軍水雷術史』の中で詳細に記されています。 これの第5編第2章『一号機雷の進歩及び用兵上の発達』です。 次のところで公開されています。

    http://navgunschl.sakura.ne.jp/suirai/jukkashi/history_frame.html

     これを要するに、主力艦について艦首形状の検討が必要であるとか、ましてや主力艦をもって連繋水雷の敷設海面を突っ切るなどは、旧海軍の頭の中には全くありませんでした。

     したがって、ご質問のようなご心配は全く無用ですのでご安心ください。


    艦船ファン

  2. ご回答有難うございます。

    しかしご回答を拝読致しまして思ったのですが、では八八艦隊時代の艦艇のみ大量に、クリッパー・バウと比較してあまり利点が多いとも思えないスプーン・バウを採用したのは何故なのでしょうか?

    >では連繋機雷の繋維索が引っかからないための具体的な形状の詳細はどの様
    >なものであれば良いのでしょうか。 これを決定するには、実際に実験をし
    >てデータを集めた上で検討をする必要がありますが、それはいつ行われたの
    >でしょうか。 その様な記録が残されているのでしょうか。

    この点に関しましては、私は寡聞にして存じません。申し訳ありません。
    Ranchan

  3. >2.
    >この点に関しましては、私は寡聞にして
     言葉たらずで申し訳ありません。 「とよく言われます」とお書きになったので、それを言っている人達がその様な根拠を示した上でのことでしょうか、という意味でした。

     もし本当に主力艦の設計に当たり緊要な事項とするならば、その為の形状と凌波性・船体の抵抗から来る要求との調和が必要になりますが、連繋水雷の連繋索を確実に乗り切れる形状かどうかは、後者の問題と異なり水槽実験や机上検討では絶対に判りません。

     したがって、まず実艦実験を重ねてデータを集める必要がありますが、その様なことが行われた事実は少なくとも用兵側からする史料にはありませんのでお尋ねした次第です。

    >スプーン・バウを採用したのは何故

     艦首形状というのは、例えば往時のラム装備や、今日のバウソーナー装備の様な用兵上・造兵上の要求を考慮したとしても、偏に凌波性と船体全体に及ぼす抵抗という造船学上の問題です。

     当然のこととして、主戦兵器には全く成り得ないどころか、その用法・戦術さえ十分に研究されていない連繋水雷について、主力艦の設計において単なる机上検討だけの対策を採用し、この造船学上の凌波性と船体の抵抗という最重要な問題を無視した船首形状を決定することなどあり得ないことです。 1ノットでも0.5ノットでも速力が欲しいのに、です。

     ご存じの通り当時はまだラム廃止後にあって、造船学上艦首形状はある意味試行錯誤の状態で、水槽実験などでさえ十分に行われていたわけではありませんし、理論も確立していたわけではありません。 したがって主力艦にあっても、船体形状全体の観点から“当時”造船学上最適と判断されるものが採用されました。

     結果的に、連繋水雷対策にもなり得る可能性があるとの期待が生じたのかもしれませんが、それは付随的なことあり、些細な問題です。

     要は、実艦での運用実績と造船学の発達との両方によって“その時点その時点で”最適と判断されるものであったということです。 それは例えばこの後の時代になる「大和」型の球状船首の採用などをお考えいただいてもお判りいただけると思います。

     もちろん造船学はこの凌波性と抵抗の問題一つを取っても、現在でもまだまだ進歩発展の最中なのですが。

    (因みに、この艦首形状によって第一船首波の波頂と波底が船体全長のどの位置に来るようにすれば良いのかが、船体の造波抵抗を考える上での一つのポイントであると理論的に判ってきたのでさえ、問題の時点よりずっと後のことです。)

    艦船ファン

  4. >2.
    >では八八艦隊時代の艦艇のみ大量に、クリッパー・バウと比較してあまり利点が多いとも思えないスプーン・バウを採用したのは何故なのでしょうか?

    スプーン・バウは高速での水切りが良いので、1900年代以降の駆逐艦に広く用いられ、中型艦以上では長門型の少し前に伊海軍のニーノ・ビクシオ級やフランチェスコ・カラッチオロ級に採用されてるコトより、当時は高速発揮に有利と考えられたからではないでしょうか
    八八艦隊の艦艇は全般に高速志向ですよね

    >よく言われます。

    連繋機雷と絡めるコトで「スプーンバウの採用は炯眼であった」と当時の某造船官を持ち上げるために後世の誰かが言い出したんじゃないでしょうか
    駄レス国務長官

  5. 所持している本を調べてみました。
    見落としがあるかも知れませんがご容赦下さい。

    「スプーン・バウは一号機雷を乗り切るための特殊形状」との記述があるもの
    (社名:50音順)

    潮書房刊
    丸スペシャル30「軽巡長良型I」(図で見る軽巡『長良・五十鈴・名取』変遷史:石橋孝夫氏)
    丸スペシャル40「軽巡球磨型I」(図で見る軽巡『球磨・多摩・木曽』変遷史:石橋孝夫氏)

    学習研究社刊
    「長門型戦艦」(最初の純日本式戦艦誕生:石橋孝夫氏)
    「軽巡球磨・長良・川内型」(5500トン型の誕生と変遷:岡田幸和氏)
    (5500トン型巡洋艦の識別ポイント:遠藤昭氏)

    学研パブリッシング刊
    「帝国海軍の礎‐八八艦隊計画」(16インチ砲搭載戦艦「長門」、「陸奥」の誕生:大塚好古氏)

    グランプリ出版
    「軍艦メカニズム図鑑・日本の巡洋艦」(船体形状の特徴と構造(1)「天龍」型と「5,500トン」型:森恒英氏)
    「軍艦メカニズム図鑑・日本の駆逐艦」(船体形状の特徴と構造(1)「峰風」「神風」型:森恒英氏)

    光人社刊
    「図解・日本の戦艦」(「長門」「陸奥」艦首解説:梅野和夫氏)
    「日本駆逐艦物語」(八八艦隊計画の駆逐艦‐神風型‐:福井静夫氏)
    「駆逐艦峯風型・神風型・睦月型」(峯風型:東清二氏)

    確かに、具体的な艦首形状決定のための実験・記録・会議などについてはどの本でも記されておらず、ただ「スプーンバウは一号機雷を乗り切るのが目的である」としか記されていません。あってもせいぜい「諸実験の結果一号機雷を乗り切れると判明した」程度の記述でした。

    「スプーン・バウは採用当時においては高速発揮に有利な艦首形状とみなされていた」というのが真相で、一号機雷との関連云々は「伝説」であったのでしょうか・・・。
    Ranchan

  6. 世艦の1968年9月号に堀元美氏が現代艦船ノート13で、>3で艦船ファン氏が述べたのと同じ理由を書かれています。
    その時の記事に『福井静夫氏の話では、この艦首の前傾斜は当時の日本海軍の秘密兵器である連繋機雷を防ぐための方策だということである』と書かれていますので、如何も1号機雷との話の出所は何時もの如く故福井氏の様です。
    ココから先は私の推測が混じりますが、故福井氏は阿川弘之氏が「軍艦長門の生涯」を執筆する際にテクニカルアドバイザー的な事をされていました。で、出来上がった「軍艦長門の生涯」ではスプーンバウと1号機雷を関連付けて書かれていますので、この辺が“こうじゃないか?”と言う話から伝説化して一人歩きを始めたのではないかと思います。



  7. >5.
    あったことをあったと言うより、なかったことをなかったと言うのははるかに難しいのですが ・・・・

    例えば、一般に手に入る刊行物では福井静夫などより遥かにベテランの元造船官たちが終戦直後に書き残した貴重な史料(後にこれを元に、牧野茂と福井静夫の名を前面に出して出版されたのが今日の話題社の『海軍造船技術概要』)をお読みいただけばお判りいただけると思います。

    主力艦の艦首形状が、連繋水雷の連繋索を乗り切ることを目的とするために、凌波性や抵抗という造船学上の問題より優先したのであるならば、あるいはその必要が無くなったので純粋な造船学上の要求に戻したとかであるならば、艦艇設計上の特質事項として記されていなければならないはずです。

    しかしながら、そのような事は戦艦の項はもちろん、巡洋艦でも駆逐艦でも一言も出てきません。 錨鎖の材質を換えた事さえ書かれているのに、です。

    これを逆に言うなら、要するに艦首形状の決定は単に“当時”の純粋な造船学上の要求からくる常識に従っただけ、と言えるでしょう。

    付け加えるなら、先にご紹介した『帝国海軍水雷術史』に記されているとおり、当時は乙種機雷(後一号機雷甲と改称)そのものが、日露戦争後の艦艇に対して期待通りの性能を発揮できるのかさえ十分に判っておらず、“実艦実験をして”これの確認をした結果によって改良を加えられたのが大正10年に制式採用された一号機雷乙です。

    そしてその一号機雷の取扱・敷設法を定める操式(教範)の最初の草案が作られたのでさえ大正5年のことであって、その先に来る用法や戦術などはほとんど手が付けられないままでした。 したがって、主力艦の艦首形状がこれを考慮したもの、など当時の状況からすればあり得ない話しです。

    (造船官達が用兵側の要求もないのに勝手にその必要性を判断し、かつ理論もデータもないのに根拠無く艦首形状を決めた、というなら話しは別です。 がしかし、それさえ当事者達が記したものはありません。 勿論私が知る限り、ですが。)

    したがって、貴殿がリストアップされた中の学研『長門型戦艦』の中で言う「艦首の形状は従来のそれと異なり、(中略)当時採用された一号機雷(中略)を乗り切れる構造としたからである。」(同書154頁)は全く根拠がなく、しかも大正5年に名称変更で一号機雷となった連繋水雷の元々の制式採用は明治38年のことです。

    そして「同機雷は昭和初年に廃止されており、凌波性の点からも好ましくなく、大改装に先だって陸奥では艦首の改正工事を実施している。」(同書105頁)などは全くの大ウソであることがお判りいただけるでしょう。 廃止などされてもいないのですから。


    艦船ファン

  8. >あったことをあったと言うより、なかったことをなかったと言うのははるかに難しいのですが

     一応は1号機雷を海上に展開しての通過試験をスプーンバウの艦で行った記録が用兵側の資料でありますね。
    戦艦でなく、球磨型軽巡を使ってですが。
     大正11年の第一艦隊が行った1号機雷の訓練報告書がアジ歴「1号機雷諸訓練(レファレンスコード:C08050520000)」としてあります。
    同資料の9頁末から10頁に掛けての総論と、15頁末から17頁に木曽と大井の実験結果が記載されてます。
     結果は、13.5ノット乃し24ノットで1号機雷を8個を繋げた繋索中央部を通過しますが、繋索は艦底を滑って抜けて、外軸推進器翼に絡まったとあります。
    低速の場合、ビルジキールに引っ掛かるが瞬時で外れ、やはり外軸推進器翼に絡まったとあります。
    「一号機雷は木曽型軽巡洋艦に対して機雷に近接して拘束さられたるの外、其の効果甚だ疑わしきものありと認む」と締め括ってますね。
    ただ、この艦首形状だからとかは一言もありません。

     だからと言って、スプーンバウ云々が1号機雷対策か、と言うと、如何もそうではなく、たまたま偶然、バウ形状が滑りやすかったからというみたいですね。
     この訓練の前年の大正10年に球磨級巡洋艦型研究会議(アジ歴「球磨級巡洋艦型研究会議(レファレンスコード:C08050142500、C08050142600、C08050142700、C08050142800)」)では、1号機雷の繋索の通過云々については、何も触れていません。
    この資料は、当時新鋭巡洋艦だった球磨級を実際に演習等で外洋で使ってみたら色々と問題点もでたので、その辺の洗い出しと対策についての会議についての資料です、。
    この演習では1号機雷の投下装置の実験で敷設も行っているので、1号機雷関係の演習も行っていそうですが、1号機雷対策で云々とかいう話は何も記載されていません。
    1号機雷を載せる載せないの話が出ている位です。
    もし、スプーンバウが1号機雷対策であれば、新鋭巡洋艦を使って演習で何らかの事は行っていそうですが、何も触れていない所を見ると、余り1号機雷については重要視をしていないとしか思えません。
     この辺を勘案すると、1号機雷対策にスプーンバウを結びつけるのは、ちと無理がある様です。



  9. >8.
    >1号機雷を海上に展開しての通過試験をスプーンバウの艦で行った記録が用兵側の資料で

     これは一号機雷の有効性を確認するためのものであって、“避ける(乗り切る)ため”のものではありませんので、「なかった」側の傍証にはなりますが、「あった」側の資料にはなり得ません。 用兵側の一連の経緯は既に明らかですから。

     何れにしても、 「スプーンバウ」という言葉からして当時にしても現在にしても造船学上の正式な名称でもなんでもなく(つまりその様な名称で定義された艦首形状があるわけではない)、戦後になって艦船研究家のオスカー・パークスが著書の中でそう“形容”していると福井静夫が取り上げたものが現在一般に流布されているだけのことですから、本来ならこの言葉の取扱いそのものも慎重さが必要な話しではありますが。


    艦船ファン

  10. >9
     結論が「一号機雷は木曽型軽巡洋艦に対して(中略)其の効果甚だ疑わしきものありと認む」ですから、用兵側としては当初は1号機雷が球磨型の艦型に有効だと思っていたという事でしょう。
    逆に言えば、1号機雷対策云々の艦型じゃないという傍証でしょうしね。




Back