316 前ド級戦艦時代は各国とも主砲のサイズが30.5cmに落ち着くまでわりとバラバラでしたが、30.5cmを超える主砲も存在はしていたのに主流にならなかったのはなぜでしょう?

asuna

  1.  装薬の進歩で、小口径長砲身化して初速を稼ぐという面がより進んだからではないかと。
     12インチに落ち着いた頃は大体40口径ぐらいでしたが、後の時代には50口径ぐらいまで進み続けたわけで、砲身延ばして威力稼ぐというのが時代の流れだったのでしょう。
    SUDO

  2. 世界の艦船212号の堀光一著「艦砲の発達」、筑土龍男著「ビッグガンの系譜とその終焉」等によると、@米西戦争等で艦砲だけで敵艦を撃沈できることが判ったこと、A測距儀の発明あるいは実用化により砲戦距離が延伸したこと、B無煙火薬の発明による砲戦距離の延伸化、C(短砲身時代の)大口径砲は取扱が不便であるのが判明したこと、D元込砲の発達等により適度の口径の長砲身砲を何門か積むのが有利とされたこと、Eその他戦法も発達したこと等による様です。
    なお、1900年ごろの戦艦は1万トン強であり、口径が12インチを超える長砲身砲は重量の面から搭載困難です。製造も困難です。
    UK

  3. お二方ありがとうございます!
    砲の長砲身化って単純ではないんですね。
    前ド級で12インチ砲以上の搭載艦はやや無理をしていたということですか。
    asuna

  4. 遅い書き込みで長文になりますが、補足したいと思います。
    19世紀末の時期は兵器全般の発達が著しく戦術思想の変遷もめまぐるしいですが、砲戦距離の増大もその一環です。
    1880年代までに艦砲は巨大化の一途をたどり16.25インチとか17.7インチとかいった超巨砲も出現したらしいですが、一方1860年のHMSウォーリア(9千トン)以来数十年、艦体が1万トンを大きく超えていないのは高張力鋼材および軟鋼材が未発達の時代だからです。大きくできない艦体に巨大化していく艦砲を搭載するため、ご想像のとおり無理は出てきます。
    装甲艦の登場以来海戦思想は、1000m台まで接近しての砲撃戦を想定していました。しかし1880年代に魚雷が実用化され射程も1000mを超えるようになり、以降魚雷の射程が伸びるにつれ砲戦距離を延ばさざるを得なくなりました。
    当時の巨砲は固定方向固定角度装填のため、1門あたり実質一時間に数発の発射速度です。海戦中二の矢、三の矢が欲しいときに数分間主砲が撃てず敵艦を止めるのに時間をかけていると、機関の発達で艦船の速力が上がったこともあり、すぐに接近されて雷撃される危険が出てきたのです。
    近接砲撃戦時代の徹甲弾は炸薬の無いソリッド弾で、接近して重要部分一点を狙い運動エネルギーのみで主装甲をぶちぬくだけが目的でしたが、高性能炸薬と遅延信管が開発され徹甲榴弾によって遠距離から重要部分以外の命中でも敵艦にかなりの被害を与えられるようになりました。もちろん、砲弾の加速に長砲身を有効に使えるようにした無煙火薬の発達もあります。
    さらに砲身製造技術も焼き嵌め層成法から鋼線巻き付け法へと進化したことで、無理なく大口径長砲身を製造できるようにもなりました。1880年代の12インチ25口径砲から1890年代には重量をほとんど変えずに35口径砲が完成しています。
    各国海軍で数年のバラつきはありますが、こういった複数の要件により長砲身時代へと短期間で移行していったわけです。
    超音速複葉機


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