355  以前から抱いていた疑問ですが、
No.345での駄レス閣下やDDかず様の発言に触発されて質問します。
 英語圏でBattle Cruiserと称される艦種の和訳は、
なぜ「戦闘巡洋艦」ではなく「巡洋戦艦」となったのでしょうか?

直訳の「戦闘巡洋艦」は、5文字と冗長で書きづらく、話しづらいからとも思いましたが、
装甲巡洋艦、防護巡洋艦は、略称の装甲巡、防護巡と共に違和感なく使われていたので、
理由としては弱いと思います。

 英語表記では、当初は単なるArmored cruiserつまり装甲巡洋艦が、
すぐに別艦種との認識でCruiser Battle shipの呼称が生まれ、
それも短期間で現在のBattle cruiserに改められ、定着したと聞きます。

 一方日本では、二番目の呼称の和訳である巡洋戦艦が定着し、
戦闘巡洋艦の方は一般化しなかったのはなぜでしょうか?

                                       2012.5.26.19:30記
NG151/20@

  1. いわゆる「主力艦」として「戦艦」と並んで束ねるときに、日本海軍でも初期に使っていた「戦闘巡洋艦」とするよりも、巡洋艦一般から切り離して、戦艦に近いポジションにもっていった方がよかったからではないでしょうか。


  2. 「巡洋戦艦」の類別制定は1912年8月で、それ以前は戦艦も巡洋艦も排水量で区分の一等二等・・・が正式名称です
    んで各艦のタイミングチャートを自作すれば自ずと判りますが、制定当時は戦艦河内型が竣工直後(建造予算消化)、一等巡洋艦金剛が進水直後(建造予算一部消化)です
    金剛はとうぜん河内型1隻よか建造費(ほぼ排水量に比例)大となりますので、大蔵省辺りから
    「何で巡洋艦のくせに戦艦よか高いのよ」
    と突っ込まれないよう
    「巡航性能の高い戦艦の一種なんで当然高くなります」
    ってんで「巡洋戦艦」と決めたものと思われ
    ちなみに扶桑は当時ようやく船台上で船底が出来た辺りで、翌々年にならないと進水しません
    駄レス国務長官

  3. “巡洋戦艦”と言う単語自体は、所謂我々が思いつく英巡戦「インヴィンシブル」誕生(1908)以前に日本海軍で公文書に現れています。
    明治17年1月(1884)の本省公文(アジ歴RC:C11018885700)の標題が“17年1月より英国にて製造の鋼製巡洋戦艦2艘へ可備付測器同国にて直に備付相成度件”となっており本文中でも『英国ヘ製造御注文相成居ル鋼製巡洋戦艦二艘エ備付ヘキ測器ノ義ハ』の様に文中では終始一貫“巡洋戦艦”と言う単語を用いています。
    明治17年の公文書で該当する艦は防護巡洋艦の浪速と高千穂なのですが、“巡洋戦艦”という単語自体は、日本海軍では明治の中頃ちょっと前位から高速+重武装の艦に付けていた証左かもしれません。
    明治44年10月(1911)の海軍公文書(アジ歴RC:C10100742400)を見ると、“巡洋戦艦”と言う単語と“戦闘巡洋艦”と言う単語がゴッチャに使われています。
    この公文書面白いのは、安保清種大佐書いた物は「英巡洋戦艦「ライオン」進水配置詳細一部 別冊ノ通リ右進達ス」となっているのですが、別紙の河合造船大技士が書いた物は「英国戦闘巡洋艦「ライオン」進水配置詳細一部 右提出仕候也」となっている事です。兵科将校と技師で異なるのは注目する事でしょうね。
    明治45年大正元年3月(1912)の海軍公文書(アジ歴RC:C08020226900)の中では“戦闘巡洋艦”と言う単語が出てくるのですが、書いた人が衆議院書記官長。
    大正2年12月(1913)の海軍公文書(アジ歴RC:C08020247000)を見ると、標題が「進水式(巡洋戦艦 榛名、霧島)」となっている様に、“巡洋戦艦”と言う単語は正式な扱いになっています。
    大正3年1月(1914)の勅令第十二号海軍礼砲令制定海軍礼砲条例廃止(アジ歴RC:A03020996000)では、海軍礼砲令の中で『第二条 礼砲ヲ行フヘキ軍艦ハ戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦又ハ三听砲以上ノ同口径小口径砲四門以上ヲ有スル海防艦若ハ砲艦トス』となっていますので、“巡洋戦艦”と言う単語が正式な艦艇類別だという事が判ります。

    こうしてみて行くと、海軍内では早い段階で“巡洋戦艦”と言う単語自体は存在しており、それは高速+重武装(+軽装甲?)の艦を示すという単語であるというコンセンサスが兵科将校の中では有ったのではないですかね。
    この辺、装甲巡洋艦との区分けが何処らにあったかは、もう少し資料を漁ってみる必要はありますけどね。
    少なくとも兵科将校等は一貫して“巡洋戦艦”と言う単語を用いている様に見えますし、“戦闘巡洋艦”と言う単語は用いていないか、英語を直訳した場合のみ使っていたのではないかと思われます。



  4.  片様、駄レス閣下、伸様
     皆様、レスありがとうございます。
     相変わらず返信が遅くて申し訳ありません。

    今回は、いつもの生活苦の多忙に加え、拙PCが変調を来たし
    ・仮想メモリーが少なくなっています。
    ・上記を増やしている間、動作が停止します。
    ・仮想メモリーがありません。
    ・一次ページファイルが作成されました。
    ・システムは深刻なエラーから回復しました。
    等の表示が出ては長時間擱座してしまい、貴板の閲覧にも支障を来たしていました。
    ようやく何回目かの擱座で
    ・コントロールパネルのシステムをクリックして詳細の(以下略)
    の表示が出て、それに従って症状が寛解しました。

     私事で脱線しましたが、皆様の論考興味深く拝読しました。
    >巡洋艦一般から切り離して、戦艦に近いポジションにもっていった方がよかった。
    (片様)
    >「巡航性能の高い戦艦の一種なんで当然高くなります」
    >ってんで「巡洋戦艦」と決めたものと思われ
    (駄レス閣下)

     私も
    >戦闘巡洋艦では、戦艦より下位である巡洋艦の一種となってしまい、
    >実際の金剛型の圧倒的な威容との落差に違和感が持たれたのでは
    と思いながらも
    >余りにも当たり前過ぎる話しで、これで大丈夫だろうか
    と疑問が続いていたのです。皆様の説明を受けてようやく納得しました。


    >“巡洋戦艦”と言う単語自体は、所謂我々が思いつく英巡戦「インヴィンシブル」
    >誕生(1908)以前に日本海軍で公文書に現れています。
    (伸様)
     初めて知る話しで、大変驚きました。
     Cruiser Battle shipの語が生まれる20年以上も前から、日本海軍では「巡洋戦艦」の概念が成立し、使われていたとは…。漢字の持つ造語力と明治の先人たちの創造力には、改めて敬意を表します。

     一方で、軍艦の用途や構造を示した英語表記の直訳から成立した戦艦、装甲巡洋艦、防護巡洋艦の呼称と、これらを組み合わせた艦隊編成が定着し、運用される状況下、巡洋戦艦は一旦は公式の表記からは姿を消します。

     それがインヴィンシブル級の登場で、
    >これこそ思い描いていた巡洋戦艦そのものだ。
    と用兵者たちは「巡洋戦艦」の表記を使い出し、戦闘巡洋艦を淘汰した、という理解でよろしいでしょうか?
                               2012.6.07.2:30記
    NG151/20

  5. 兵科将校は“戦闘巡洋艦”と言う単語をほとんど使っていなかったのではないですかね。
    明治43年9月(1910)の海軍公文書(アジ歴RC:C10100709100)を見ると、英巡戦ライオンを加藤中佐は『英国装甲巡洋艦「ライオン」進水記事 右磯崎造船大技士「デボンボート」工廠実習中調査ニ係リ頗ル重要ノ報告ニ付』と巡戦の事を装甲巡洋艦としていますし、同じ公文書に添附されている磯崎造船大技士の報告書も題名も『一等巡洋艦"Lion"進水記事』と装甲巡洋艦の正式類別名になっています。
    又、明治45年大正元年(1912)の海軍公文書(アジ歴RC:C08020002900)でも『先般大英装甲巡洋艦「ライオン」級ニ大改造ラナス必要ラ生ジ「ライカン」「クインルリー」及ビ「プリンセス,ローセル」ノ三艦ヲ改造スルトノコト』と同文書内で、“装甲巡洋艦”の単語を使っています。
    英国に発注された金剛の予算は装甲巡洋艦(一等巡洋艦)で取られていますし、国内建造の榛名、比叡、霧島も当初は装甲巡洋艦として予算取りとかされています。

    この辺を考慮すると、当初は海軍内では巡洋戦艦は強力な装甲巡洋艦として見られていたのではないかと思います。
    あくまで仮説ですが高速+重武装の艦の名称として次の様な変遷が兵科将校を中心に海軍内ではあったのではないかと。
    巡洋戦艦と言う単語が生まれる →(断絶)→ 装甲巡洋艦 → 装甲巡洋艦と巡洋戦艦の混在 → 巡洋戦艦


  6. >4.
    > Cruiser Battle shipの語が生まれる20年以上も前から、日本海軍では「巡洋戦艦」の概念が成立し、使われていたとは…。漢字の持つ造語力と明治の先人たちの創造力には、改めて敬意を表します。

    明治17年の「巡洋戦艦」と明治44年以降の「巡洋戦艦」との間に連続性・一貫性・同一性を見出すのはチト難しいんじゃないでしょうか

    > それがインヴィンシブル級の登場で、
    >>これこそ思い描いていた巡洋戦艦そのものだ。
    >と用兵者たちは「巡洋戦艦」の表記を使い出し、戦闘巡洋艦を淘汰した、という理解でよろしいでしょうか?

    インヴィンシブル級の登場に前後して本邦でも戦艦的巡洋艦たる筑波・鞍馬両級が登場してますケド、その時点で「巡洋戦艦」の表記を使い出すほどのインパクトは無かったですよね
    んでそのきっかけはやはりライオンとその姉妹たる金剛の登場であった、と
    あと>2.のような後ろ向きの理由に加えて
    「こらどうみても戦艦じゃね?」
    「巡洋艦よか戦艦に乗りたいよねー」
    「大正に改元したのを機に艦種類別も新時代に相応しく変えようっと」
    など、改称の背景には色んな思惑があると思われます
    駄レス国務長官

  7.  伸様、駄レス閣下
     更なるご解説、ありがとうございます。

     伸様
    >兵科将校は“戦闘巡洋艦”と言う単語をほとんど使っていなかったのではないですかね。
     私が投稿した
    >用兵者たちは「巡洋戦艦」の表記を使い出し、戦闘巡洋艦を淘汰した
    の表現が曖昧で誤解を招いているように思います。

     私の理解は
    >現場の用兵者から和製漢語≒俗語として発生した巡洋戦艦の呼称が、
    >正規の漢訳語として官界、言論界、軍の技術部門(広義の学界)で通用していた
    >戦闘巡洋艦の呼称に対して優位になり、正式名称としても確定する下克上が起きた
    となります。

     伸様式に時系列で書くと、

    官言学界:        漢訳語の装甲巡洋艦 → 漢訳語の巡洋戦艦/戦闘巡洋艦 → 巡洋戦艦
                 ↓ 編成として導入     ↑ 用語的下克上     (正式艦種名)
    用兵者:俗語の巡洋戦艦 → 戦甲防各艦種の確立 → 装甲巡洋艦と巡洋戦艦の混在 → 巡洋戦艦
       (土着的自然発生) (巡洋戦艦の死語化)  (巡洋戦艦の復活、優位化)  (直訳<意訳)

    となります。

     管見の要旨は、明治維新以来概念面も含めて舶来万能で、それによる官僚側の優位が圧倒的だった当時の日本で、現場レベルの土着の俗語をルーツに持つ意訳語が、漢訳による正規の直訳語(ライオンの建造時点では、既にBattle Cruiserが正式艦種になっていたので)で政官学界でも通用していた表現に打ち勝って正式名称の地位を得た、という点にあります。そしてその理解に導いてくれたのが、伸様による一連のアジ歴の文献でした。改めて記して感謝します。

    NG151/20

  8.  駄レス閣下 
    >明治17年の「巡洋戦艦」と明治44年以降の「巡洋戦艦」との間に連続性・一貫性・同一性を
    >見出すのはチト難しいんじゃないでしょうか
     ご批判は理解できます。しかし、連続性・一貫性は無理筋としても、同一性は一定程度はあると思います。

     駄レス閣下のご批判の根拠は、
    1.明治17年当時、巡戦以前にまだ戦艦という艦種自体確立していない。
    2.日清、日露の主要な海戦で、戦艦−装甲巡−防護巡の編成が確立されていて、その間巡洋戦艦は死語となっていた。
    にあると思います。

     1.に関しては、マジェスティック級以前のどこからが戦艦かを考慮しても、当時の戦艦が現在の戦艦とは似て非なるものであることは確かです。2.に関しても両者には四半世紀以上のブランクがあるので連続性はないとのご見解も充分理解できます。

     一方私は、「巡洋戦艦」には明治17年、同44年とも重武装・高速を両立させた強力無比な軍艦への憧れを込めた美称の意味合いが含まれるという点と、さらに漢訳輸入語ではない、後者はそれを淘汰したという点に共通性を見出しているのです。この点では、大正期までの海防艦と第二次世界大戦で復活した海防艦との関係とはまったく異なると思います。

    >インヴィンシブル級の登場に前後して本邦でも戦艦的巡洋艦たる筑波・鞍馬両級が登場してます
    >ケド、その時点で「巡洋戦艦」の表記を使い出すほどのインパクトは無かったですよね
    >んでそのきっかけはやはりライオンとその姉妹たる金剛の登場であった、と

     これはその通りだと思います。4.の拙見インヴィンシブル起源は誤りでした。
    当時の日本海軍は、先進列強を範とし、それに続くことに奔走した結果、独創性に乏しく
    >模倣から出発し、慣性と拡大で発展した
    と批判的に評されていました。閣下ご指摘の前弩級巡洋戦艦たる筑波型を単なる装甲巡とした他に、河内型戦艦を擬似弩級戦艦に貶めてしまった失態もあります。

     これに対し、舶来起源の金剛型の存在は圧倒的であり、名実ともに新艦種が必要との認識を定着させる差別化が実現していたと思います。
                               2012.6.17.17:25記
    NG151/20

  9.  ログ落ち寸前の今さらですが、気になって改稿しました。

     駄レス閣下 
    >明治17年の「巡洋戦艦」と明治44年以降の「巡洋戦艦」との間に連続性・一貫性・同一性を
    >見出すのはチト難しいんじゃないでしょうか
     ご批判は理解できます。しかし、連続性・一貫性は無理筋としても、同一性は一定程度はあると思います。

     駄レス閣下のご批判の根拠は、
    1.明治17年当時、巡戦以前にまだ戦艦という艦種自体が確立していない。
    2.日清、日露の主要な海戦で、戦艦−装甲巡−防護巡の編成が確立されていて、その間巡洋戦艦は死語となっていた。
    にあると思います。

    1.に関しては、マジェスティック級以前のどこからが戦艦かを考慮しても、当時の戦艦が現在定義される戦艦とは似て非なるものであることは確かです。
    2.に関しても、両者には四半世紀以上のブランクがあるので連続性はない、とのご見解も充分理解できます。

     一方私は、「巡洋戦艦」には明治17年、同44年とも重武装と高速を両立させた出現時点での最強艦への憧れを込めた美称の意味合いが含まれるという点と、さらに漢訳輸入語ではない、後者はそれを淘汰したという点に共通性を見出しているのです。この点では、大正期までの近海防衛を任務とする準または元主力艦としての尊称の意味も含まれている海防艦と、第二次世界大戦で船団護衛用の言わば消耗品として粗製乱造された小型護衛艦への名称として指定された海防艦(一般的にはフリゲートかコルベットに分類される)との関係とはまったく異なると思います。

    >インヴィンシブル級の登場に前後して本邦でも戦艦的巡洋艦たる筑波・鞍馬両級が登場してます
    >ケド、その時点で「巡洋戦艦」の表記を使い出すほどのインパクトは無かったですよね
    >んでそのきっかけはやはりライオンとその姉妹たる金剛の登場であった、と

     これはその通りだと思います。4.の拙見インヴィンシブル起源は誤りでした。
    当時の日本海軍は、先進列強を範とし、それに続くことに奔走した結果、独創性に乏しく
    >模倣から出発し、慣性と拡大で発展した
    と批判的に評されていました。閣下ご指摘の前弩級巡洋戦艦たる筑波型を単なる装甲巡とした他に、河内型戦艦を擬似弩級戦艦に貶めてしまった失態もあります。

     これに対し、舶来起源の金剛型の存在は圧倒的であり、名実ともに新艦種が必要との認識を定着させる差別化が実現していたと思います。
                               2014.6.9.12:25改稿
    NG151/20


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