398 日露戦争に参加した軍艦「吉野」は吉野山、吉野川(紀伊半島または四国)、地域名としての吉野地方のいずれかから命名されたように思えます。
最も正しそうな候補はどれでしょうか?
準同型艦の「高砂」は高砂の浦だと思うので、和歌に詠まれる吉野山か行幸先としての吉野地方のような気がするのですが…
U-TARO

  1. 気軽に投票してよろしいでしょうか。
    この分野に入れ込んでいる訳ではないので素人の戯れ言ですが。

    小生は吉野山に一票いれます。
    『高砂の尾の上の桜〜』とセットで山桜つながりで。

    御上がどう考えておられたのかは判りませんが、吉野山の桜は見事ですよ。

    太助

  2. 日本郵船の吉野丸の絵葉書は吉野山の桜をあしらったものも、吉野川を描いたものもあり、吉野と名付けた時にはこれらを包括する吉野の地をイメージして名づけるのが普通なのだと思います。
    また軍艦の名は公式に決めるものですが、命名由来を定める規定はありません。むしろ幅広い解釈を許す命名のほうが優れているとも言えますから、その由来はこれとは定めにくい場合があります。
    そのために有終会編「艦名考」といったものが作られますが、あくまでも蘊蓄話の類でそれが正しいとはまったく限らない、というのが実情です。
    BUN

  3.  旧日本海軍の軍艦の命名は海軍大臣の上奏したものを天皇が裁可するという形式を採っております。ただ、明治時代には天皇自身が案とは別の艦名を決めたというケースもあるようです。そして、1905年に艦名選定基準が定められるまでは、山岳名を主として、かなり雑多なものから艦名が選ばれております。ただ、その多くは歌枕によるものであります(それゆえに、雑多なものから命名されたともいえるのですが)。これは、命名権者である明治天皇が歌人だったからであります。
     そのような背景から考えると吉野山が艦名の由来としてはふさわしいとは思いますが、吉野川(これは紀の川の上流の吉野川のことで、質問者様の書き方で申しますと「紀伊半島」のほうです)も、「万葉集」の時代から柿本人麻呂の「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」のように歌に詠まれておりますので、決め付けるわけにもいかないと思います。
     また、山岳名を主体にしておりますが、1890年に提出された建造計画で認められたのは巡洋艦吉野と須磨、それに水雷砲艦(後に通報艦)龍田であり、龍田が河川名に由来するので、吉野を山岳名と決め付けるわけにもいきません。また、龍田以前にも天龍川に由来する艦名も採用されておりますので、余計にそうであります。
     したがいまして、2で
    BUN様が書かれておられますように、命名由来を定めた時代の艦名ではありませんので、これだと決めることは不可能なのですが、しいていうならば、吉野山であろうとは思います。ただ、その絶対的な根拠がないといわれたらそれまでの話ではありますが。
     
    hush

  4. 「日本海軍艦船名考」浅井将秀 S3東京水交社 に拠ると
    吉野 山名ニ採ル
    高砂 名所名ニ採ル
    須磨 名所名ニ採ル
    龍田 川名ニ採ル
    ・・・とあります
    駄レス国務長官

  5. >4
    このように命名由来を考察しなければわからない・・ということ自体が重要ですね。
    BUN

  6. >3.
    『海軍軍備沿革』をものしたことでも知られる海軍嘱託の浅井将秀が纏めて
    東京水交社から出ていることを考えるなら、これに異議を夾む余地は少ない
    でしょうね。 旧海軍部内ではこれを正解と考えているわけですから。
    まあ、それを根拠文書がないから“蘊蓄話”と切り捨てるのはその人の自由
    ではありますが。

    艦船ファン

  7. 極めて明快な話しです。
    >幅広い解釈を許す命名のほうが優れている
    >余技としての考察
    などは単なる一個人の感覚論にすぎませんから。
    艦船ファン

  8. 艦名の由来は現役の将兵が思い悩む問題ではなかった、という点がひとつ。
    そしてほとんどの艦名はその由来が誰の目にも明快だったという点がもうひとつ。
    最後に、由来が複数考え得る艦名については由来を断言せず、幅を持った解釈が許されていた様子が公文備考などからも伺えるということです。
    どんなに権威があろうとも、そもそもタイトルが「考察」なのですから。
    BUN

  9. 感覚論ではなくて、実際に海軍の承認を得ている進水絵葉書などにも幅を持った解釈があり、艦名由来に関する質問にも断言されない、という現実がありますので仕方がないことでしょう。
    「艦名考」の全てが不正確なのではなく、完全とはいい難いというお話がご不快でしたら失礼申し上げましたが、やはり、そうとしか言えないということです。
    BUN

  10. 水交社という組織がどのようなもので、そこから出される書籍がどのような性質のものであるかを考えれば明らかな話しで、もしその記述に不正確なものがあれば当然訂正される事柄です。

    >艦名の由来は現役の将兵が思い悩む問題ではなかった
    大変な問題であり、だからこそ統一見解を出したわけです。

    艦船ファン

  11. そこがわかりません。
    どのように「大変」なのでしょうか。
    なぜこのような時期に統一見解を必要とするような状況が生まれているのでしょう。

    BUN

  12. 海軍創設から70年あまり経過して艦名の由来を知らぬ将兵が増え、やれ吉野山だ、いや吉野川だ、待て待て吉野地方だと要らぬ騒ぎを起さないよう、当局が権威者に委嘱して編纂させることにより統一見解を示したってことじゃないでしょうか
    駄レス国務長官

  13. 質問者です。皆様、貴重な意見をいただきありがとうございました。
    まだ艦艇の命名規則が定まっていない時期の話ですので、定説は無いだろうという先入観があったのですが、いろいろと資料や状況証拠があるものなのですね。
    これまでのお話から、単純に名所「吉野」で命名され、規則が定まって後に「吉野 山名ニ採ル」と公式見解が出されたという流れに思えました。愚問にお付き合いいただき、御礼申し上げます。
    U-TARO

  14. >12

    御存知の通り軍艦には進水式と共に命名式があり、艦名の由来もそこで述べられることに決まっていますので現役の艦の命名由来は多くの場合、「考察」を待たずとも明らかなのが普通です。もし何十年も前の命名について由来が忘れられてもその艦名を襲名する艦が無ければ実務的な問題は発生しません。
    「艦名考」の類はそうした点ではさほど役に立ちません。
    ですから命名式の後から「実はこうだった」というような「公式見解」が出るような性格のものではないでしょう。
    しかも新造艦艇は掲載されていませんから、もし命名式以前に実務上の問題が生じた時などは照会電を打って確認するべき事項になるはずです。
    水交社の出版物にどんなに権威があっても機能する場があまり無いということです。
    そして問題は命名式を経てもまだ含みのある名称もあり得るということではないかと思います。


    BUN

  15. >13. U-TAROさん
    それでよろしいと思います。 以下はご参考までに。

    艦名というのは、現代の研究家も含めて、一般の方々には大したことのないことかもしれませんが、当の艦船乗員については大きな問題です。 なにしろ自分の命をかける船のことですから。

    例えば、軍艦には(というよりほとんど総ての船舶には)「艦内神社」がおかれます。 これは「船玉」(船霊)を祀るもので、就役時にその艦名にちなんだ神社を選んで魂入れをお願いし、以後退役までこの関係が続きますし、艦船乗員は常日頃から何かにつけてこの艦内神社に参拝します。(これは現在の自衛艦でも同じです。)

    ご存じのとおり、神社というのは細かな系統に別れておりますので、どこでもよいというような安易なことで済ますわけにはいきません。

    したがって、吉野山でも吉野川でも、あるいは吉野地方でも、などという曖昧なものではありません。

    このこと一つをとっても命名由来というのは大事なことです。 このため、hush氏が>3.で書かれているように根拠文書が残る性質のものでなかった以上、当該艦の乗員はもちろん、海軍としてもその統一見解を出す必要があったわけで、それが浅井将秀の手によって「艦船名考」として昭和3年になって実現し、海軍部内に知らしめたわけです。

    (水交社から出されるものは海軍部内向けであって、一般向けではないことはご承知のとおりです。)

    早い話しが、命名由来は元々各艦では別に曖昧だったわけではなく、浅井は単に過去に遡ってそれを纏めただけとも言えます。

    丁度この時期、「明治天皇御記」の編纂も進められており、海軍部内でも各種の文書の収集及び確認が行われておりますので、これに何某かの関係があったのかもしれませんが。

    したがって、ご質問の「吉野」については当該書のとおりの「吉野山」で異議を夾む余地はまずないと言えます。

    ではこの件はこれまでに。

    艦船ファン

  16.  すでに質問者の方から御礼を戴いておりますし、納得もされておられるようですので、書き込むかどうかを非常に迷ったのですが、15の、
    艦船ファン様の「海軍としてもその統一見解を出す必要があったわけで、それが浅井将秀の手によって「艦船名考」として昭和3年になって実現し、海軍部内に知らしめたわけです」という一文で疑問を生じましたので、失礼をも顧みず、御教示戴きたい思い、筆を執りました。
     それは、かつて「世界の艦船」誌上に連載された高須広一氏の「艦船名考」が、浅井将秀の「艦船名考」とは異なる見解を載せていることです。同様の書で、最近、再刊された労作「聯合艦隊軍艦銘銘伝」の作者片桐大自氏は出版関係者ですが、高須広一氏は海上自衛隊の出身、それも海将の地位まで昇られた方です。当然、
    艦船ファン様と同様に浅井将秀に敬意を払っており、その著が旧日本海軍での統一見解であると思われていたと思います。ところが、朝日については、浅井は旭日とするのに対して、高須氏は宇治の朝日山という説を出しています。また、初瀬については、前者が初瀬川とするのに対して、後者は初瀬山であるとしています。他にも、いくつかの違いはありますが、浅井の書が「海軍の統一見解」であったのなら、異説を出す必要はなく、余地もなかったと思われます。
     しかし、実際には異説を出している、それはなぜかというのが、小生の疑問であります。
     艦名の由来の調査は、私のライフ・ワークでありますので、煩瑣なことと思われるかもしれませんが、小生にとっては重大事でありますので、枉げて御教示戴ければ幸甚に存じます。

    hush

  17. 艦艇名は命名式で由来が公表されるもので、あえて統一見解を示さねばならないものではない、ということは納得戴けたと思います。
    そうして名づけられた艦名と艦内神社に勧請する神様との御縁とは必ずしも一対一で対応するものではありません。
    そもそも歌枕には具体的に何かを指し示さない場合があり、所在地不明のものさえあります。歌枕とは元来そうしたものだからです。
    ですから吉野、初瀬に山だ、川だと定義するのは無理な場合があり、たとえ命名式で「これこれにちなむ」と宣言されたとしても、それだけで意味するものが規定しきれない歴史と文化を帯びている、ということです。
    最初に郵船の吉野丸の絵葉書に山も川も描かれていると紹介したのはこうした意味です。
    艦船ファンさんの御説の通り、実務上の問題はほとんど生じなくとも軍艦に限らず船の名前は大切ですから、郵船の立派な大型船もいい加減な命名はしません。
    なのにどうして含みと幅を持たせているのか、というのが大事なところなのです。
    BUN

  18.  艦名選定基準制定以前の命名について、「山」か「川」かと限定する必要があるのでしょうか。
     「吉野」が歌枕である名所旧跡地名にちなんだ命名であることは間違いないでしょうが、歌枕の吉野は「吉野の桜」であればおそらく山でしょうし(もっとも吉野の谷間の一本の桜を詠んでも構わないわけですが)、「吉野の鮎」なら川でしょうし(これだって、吉野川本流にいる鮎じゃなくてもいいでしょうが)、谷間にあったと思われる南朝の吉野宮、あるいは大海人皇子揚の地でもあります。
     歌枕としての吉野を考える場合、たしかに山が一番多いように思えますが、だから「山」なのだというのは、艦名選定基準以降の考え方を、そんなものが存在しなかった時代に無理矢理当てはめているに過ぎないのではないでしょうか。
     歌枕としての吉野は山も川も谷間の吉野宮もすべてを含んでいる地名なわけで、それを「山」か「川」というのは、19世紀の巡洋艦を重巡か軽巡かと議論するようなもののように思えます。
     吉野が山か川かという議論(他の多くの艦名の山か川かも)は、艦名選定基準以後、歌枕(名所旧跡)の艦名としての地位が大幅に低下したことによって、発生したのではないでしょうか。
    カンタニャック

  19. >吉野が山か川かという議論

    そういう議論が本当にあったのでしょうか?実は無いのではありませんか?
    BUN

  20. >16. hushさん
    両書は全くその立場と性格が異なりますことをお考えいただけばよろしいと思います。

    即ち、浅井は公務で海軍史編纂に携わっており、その流れの中で海軍の公式見解として「艦船名考」があります。

    その一方で、高須氏は現役中に公務として海軍史・海自史に携わったことはなく、全くの定年退職後の個人の趣味として「世界の艦船」に投稿したに過ぎません。 当然ながらこれは海自の意向を受けてのものではなく、ましてやそれを代表するものでもありません。 したがって、これについては元海将という肩書きは全く無関係です。 (勿論、海自艦艇については現役中に関係資料を参照できたでしょうが。) つまり当該記事の立場と性格は片桐氏の「銘々伝」と同じで、単に一般向けの一個人としての私論に過ぎません。

    したがって、その私論としてもし浅井のものと異なる点があるとするならば、なぜ異なるのかを根拠を示して論ずるべきであったと言えます。

    なお、本Q&Aでの論点は軍艦「吉野」についてであり、所属組織も命名法も異なる別の船舶を、名称が同じと言うだけで混同して論ずるのは全くの無意味であることは、申し上げるまでもないと存じます。


    艦船ファン

  21. >20
     御多忙中にも関わらず早速の御回答を賜り厚く御礼を申し上げます。
     浅井は軍人ではなく軍の嘱託であったが公務であり、高須氏の場合は、自衛官とはいえ退職後の趣味として書いたものにすぎないという説明は、非常に明快であり、反駁の余地のないものです。たしかに言われてみればその通りでありまして、不明を恥じるばかりです。愚問にお付き合い戴き、ありがとうございました。

     ただ、そうなると、何ゆえ、高須氏は公式見解があるのに、私論とはいえ、そのようなものを発表したのかという疑問が生じます。そこで、氏が浅井のことを知らなかったという、ほぼ、ありえないものに始まって、いろいろと考えてみました結果、公式見解だったからという結論に達しました。
     かつての旧日本海軍の軍艦の命名は、海軍大臣の上奏したものを天皇が裁可するというものでありますが、3に述べましたように、命名権者は天皇であります。したがって、通常、海軍は艦名案を2つ上奏し、どちらかを天皇が選ぶわけですが、もっと案を出させる場合もありますし、天皇自身が案とは別の艦名を定めるということもあったと伝えられております。
     実際、赤城と命名された砲艦には、笠置、伊吹、那須、多武、鷲尾、月山、阿蘇、金峰、榛名、蓬莱、立科、吉野、真城、白山、霧島、飯豊、磐悌、比良、龍門、玉置、磐山、立山と多数の候補艦名が伝えられており、天皇自身の並々ならぬ熱意を感じます。通常、2案である艦名案が、これだけあるということは、何度も上奏を求めた結果であると思われるからです。また、天皇自身が艦名を定めたというのが事実であるとするのならば、海軍の上奏案を考えるだけでは不十分であるということになります。

     初瀬につきましては、氏は、なぜ浅井と異なる由来を出したかは示されておりませんが、朝日については、概略、次のようなことを述べています。
     
     朝日は先行する敷島の参考艦名として上奏されており、海軍案は本居宣長の「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」の上下の句の冒頭から採ったものと推定され、朝日は「一種の名称」と考えられる。
     これに対して、明治天皇は「もののふの八十宇治川にすむ月の光に見ゆる朝日山かな」と詠んだことがある。
     また、天皇は「わが国にありとあらゆる山の名をふねとふ船におほせてしがな」とも詠んでおり、朝日は山名と考えられる。

     もちろん、天皇自身が何ゆえにそう命名したかは不明であり、推定に頼らざるをえません。臣下が命名の由来を質問することはありえないからです。ただ、明治期の艦艇の一部については、海軍の公式見解とは異なる命名由来を、それが憶測であっても、許されることであったと考えられたのではないかと愚考いたしております。
     
    >18
     「明治天皇御集」には吉野を詠んだものは「ひとたびは見むよしもがな名ぐはしき吉野の山の花のさかりを」という一首のみが収められております。もちろん、この一首のみをもって吉野を山名と推定するのは乱暴でありますが、御参考になれば幸いです。
     
    hush

  22. >21.
    全く仰るとおりと思います。 そしてhushさんの博学にはいつもながら感服いたします。

    hushさんが>3.で述べられたとおり、如何に旧海軍と言えどもその絶対的な根拠がなかったことについては同じですが、それ故に海軍の一応の統一見解として浅井の纏めたものが海軍部内に示されたわけです。 したがってそこに後世の研究家による検証の余地が残されていることもまた事実です。

    それだけに、高須氏に海軍の見解に対する異論があるならば、単にその異論を書くだけでなく、何故そのように考えたのかの理由と根拠をキチンと示すべきであったと言えます。 もちろん雑誌での連載ですから、そこまでの紙幅が許されなかったであろうことは理解できますが、何分その点が惜しまれる次第です。

    艦船ファン

  23.  御賛同戴いたうえ、慮外のお褒めの言葉まで賜り、ありがとうございました。
     
    hush


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