1078  昔の大砲は火薬の量を変える事で射程を調節してました(今でも榴弾砲や迫撃砲はある程度は装薬量調整しますが)が、艦載砲で火薬量を一定にして仰角で射程を調節するようになったのはいつごろからですか?
おうる

  1.  興味深い質問をありがとうございます。普段、そういうことをあまり考えないので、面白そうだ、調べてみたいという欲求が湧いてくるのです。
     ところで、艦砲は、帆船時代から梃子や楔を用いて仰角を調整しています。もっとも、これは相手の船体ではなく、帆走設備を狙うためのものですが、射程の調節のためと書いたものもあります。ただ、帆走時代の艦砲はピストルの射程を超えると命中しないと言われるぐらいですので、あまり意味はないでしょう。
     したがって、射程の調整に仰角が重要になってくるのは、砲身にライフリングが施された19世紀、特にアームストロング砲が登場する世紀末の頃ではないでしょうか。
     
    hush

  2.  回答ありがとうございます。

     確かに帆船時代の戦列艦が砲の仰角を調節していたのは存じていますが、あれは多分射程の調整というよりは、船の傾きの分を補正するためだったんじゃないかと思う次第です。

     ただ、帆船時代でも陸上目標に対する艦砲射撃はやっていますし、それなりに遠距離射撃になりますから、射程の調節自体が必要なかったわけでもないだろうとも思います。

     そういう場合でも火薬の量は一定だったんでしょうか?
     臼砲艦みたいなのはともかくとして、艦載砲で火薬量の調整をやめちゃったのはいつからなのか気になります。
    おうる

  3. 此処を御覧になりましたか。参考になるかと

    http://navgunschl.sblo.jp/article/126725437.html
    タンジェント

  4. あと艦砲ではありませんが、分離装薬を使う榴弾砲では、現在でも射距離に応じて装薬を減らします。

    http://www004.upp.so-net.ne.jp/weapon/propellant.htm
    タンジェント

  5. >>3,4 回答ありがとうございます。

    リンク先は知ってはいましたが、じっくり読んだことはありませんでした。参考になりました。

    一応、薬嚢を使う砲では装填する薬嚢の数を変更して強装/弱装に切り替えていたものがあったことは承知しております。
    現代の榴弾砲や迫撃砲でも装薬量を調節するものがある事も。

    質問で想定しているのはガレー船や帆船に積まれていたような鋳造滑腔砲で、松明で火をつけて発砲するような奴です。

    そういえば薬嚢はいつ頃から使われてたんでしょうか?
    16世紀末にグスタフ・アドルフが紙の薬嚢を使ったらしいという話はどこかで読みましたが・・・
    おうる

  6. 世界の艦船No.212号は、艦砲の今昔の特集の(1)ですが、筑土氏と堀氏(元海軍技術大佐)の往時の艦砲、射法、火薬等についての解説が記されています。これによると、17世紀には俯仰角を調節していたようです。17世紀のスエーデン軍艦ヴァーサ(wasa)の24ポンド青銅砲と砲弾と装薬の写真が掲載されています。
    なお、今日と異なり、海戦で装薬の量を調整して射距離を制御するのは困難だったと思われます。何しろ、1880年頃までは、発射時機(原文通り)は砲側の射手に任せ、弾着観測も射手や砲長が行っていました。
    US

  7. >>6
     回答ありがとうございます。

     帆船の場合は船体が左右に傾くので、風下側の砲は上向きにしないと海面撃っちゃうし、風上側は下向きにしないと上空へ飛んで行ってしまうので俯仰調節はかなり早い段階からやっていたであろうとは思っています。

     想像ですが一番最初に大砲を船に乗せた時は、陸上での大砲と同じ打ち方をしただろうと思うのです。
     だとすれば最初は火薬量の調節によって射距離を変えようとしたのではないかと・・・ただ、揺れ動く船からの砲撃は遠距離では当たらないし、陸上目標を艦砲射撃する場合はともかく、それ以外の対艦砲撃では必中距離に寄ってから撃つのが基本になっていきますし、火薬量の調整による射距離の調節という行為そのものがなくなっていったのではないかと・・・

     そのようなプロセスが実際にあったとするならば、それはいつ頃、どのように成されたのかが知りたいのです。
    おうる

  8. 1. 6: USをUKと訂正します。
    2.ガレー船をwikiで調べると、初期は弩級等を船首に備え、後に大砲が搭載されており、更にググっていくとそれらの大砲の詳細まで辿れます。これによると、海戦では砲弾の持つ運動量が問題だったそうです。更に後の時代の射距離の修正は装薬量の調節ではなく、(最初から)仰角の調節だったようです。ともかく、陸上と異なり、目標も撃つ方も動いていることによります。

    UK

  9. >7
     砲耳は15世紀からありますので、陸上の砲においても俯仰調節により射程を調整していたでしょう。もちろん、3で紹介されているように装薬量による調整も行っていたはずです。
     ただ、俯仰調節は1で申したように、重い砲身を人力で動かすため、梃子や楔を用いることになります。陸上の場合は、固定目標が多く、射撃間隔も悠長なものですのでそれでいいのですが、揺れる艦内では、船の動揺に追従させるのは困難で、適当な傾斜になった時を選んで砲撃を行っています。
     にもかかわらず、艦内で俯仰調節を行うのは、高所にある目標、たとえば相手の帆柱とか、崖の上の砲台を狙うという場合です。
     https://en.wikipedia.org/wiki/Naval_artillery#Artillery_ranges
     を見ていますと、18世紀の時点で全弾命中が期待できる近距離射撃は僅か5ヤード(4.5m)、4-5斉射で15-20%の命中が期待できる中間距離が30ヤード(27m)、1-3%しか命中が期待できない遠距離でも800ヤード(720m)でしかありません。
     滑腔砲の時代、7で書かれているように、ほとんどの海戦が中間から近距離射撃で行われていますので、射程を変えるというのはかなり特殊な状況でないとあり得ないと思います。その時、装薬の量を変えるのは当然でしょうが、3のリンク先にありますように「火薬量の調整による射距離の調節」がなくなるのは、20世紀前後ではないでしょうか。
     
    hush

  10. >>8、9

    回答ありがとうございます。
    おうる

  11.  砲身の俯仰による弾丸到達距離の制御は、しっかりした砲架の存在があってこそ可能であると思います。木造帆走軍艦の時代の様に、ロープで止めた木製の台車に砲身を置き、全体をクサビや金てこでカンで微調整する様では大したことはできません。しかも台車は剛性の小さい木造艦の甲板に乗っていますから。鉄製のしっかりした砲架ができる様になり、かつそれらをしっかりした船体に据え付けられて初めて仰角による距離調節ができるようになったでしょう。最初は錬鉄製だったかも知れませんが、ベッセマー法により、鋼が大量・容易に得られる様になった1870年代から近代的砲架の採用が普及してしたのではないでしょうか。
     英軍が鹿児島を砲撃したとき、アームストロング砲(?)を使った様ですが、絵で見る限り、昔ながらの代車方式に見えました。
    電気戦艦

  12.  11.の最後、代車方式は誤りで、台車方式が正しいです。
    電気戦艦

  13. >英軍が鹿児島を砲撃したとき、アームストロング砲(?)を使った様ですが、絵で見る限り、昔ながらの代車方式に見えました。

    横から失礼します。
    アームストロング110ポンド後装砲のことですね。レプリカがHMSウォーリアに展示されていると思います。
    砲架の形式はピボットガンというものです。
    レール状の台座(キャリエージ)の上を車輪つき砲架が前後移動し、台座は前端にピボットがついて旋回できるもので、1810年代には既に登場しているようです。
    俯仰角の調節はスクリュージャッキのようなものが使われます。

    ただし射撃戦術が本質的に変わってないと思われるので、ご質問の本題とは外れるものです。
    門外漢が失礼しました。
    超音速

  14. >13
     11は、1で私が書きました「特にアームストロング砲が登場する世紀末の頃ではないでしょうか」という文言に対するものではないかと思っています。
     ただ、9で申しましたように7のリンク先により、私の勘違いであったことは明らかですので、上記は間違いです。
     
    hush

  15.  御免なさい、14で書いた7のリンク先は3のリンク先の間違いです。
     年はとりたくないないです。
     
    hush

  16. >>11〜14 皆さん回答ありがとうございます。

     基本的に火薬量の増減による艦載砲の射程距離の調節自体がかなり非現実的であろうことは理解しています。

     火砲が船に搭載されるようになったのは14世紀ごろかららしいですが、当時あったのは棒火矢のような物でここで質問の対象としている大砲が登場するのは15世紀に入ってからです。
     15世紀半ばには砲耳が出来ていますが、車輪付きの砲架が登場するのは15世紀の末ごろまで待たねばなりません。
     船に本格的に大砲が詰まれるようになるのは16世紀からのことらしいので、案外車輪付きの砲架の登場が船への大砲装備のきっかけになっているのではないかと想像します。

     ただ、15世紀は砲耳のある大砲と無い大砲が混在していますし、16世紀に入ってからも砲耳のない射石砲が船に搭載されたような記録もありますので、火薬量の増減による射程の調節自体が全く行われなかったという訳では無いと思います(モンス・メグって結局、船上から撃ったことあるんですかね?)。

     しかし、質問は火薬量増減による射程の調節がいつまで行われたか?ではなく、火薬量を一定にして俯仰角調節によって射距離を調節するようになったのはいつごろからなのか?なので、答えとしては船が大砲を積み始めた当初からそうだったと、ここでは結論付けたいと思います。
    おうる

  17. >16 モンス・メグって結局、船上から撃ったことあるんですかね?
     Wikipedia日本語版にはグレート・マイケルに載せたという記載はありますが、英語版にはありませんし、"Mons Meg" "great michel"あるいは"Mons Meg" "michel the great"の組み合わせで検索をかけても思わしい結果は出てきません。そこで、日本語版の記述の真偽を疑うわけですが、この記述は2012年の最初の版からあります。ただ、すぐにこの記述に要出典という注記が入り、2015年にこれが消えています。そして、この注記を消した人物については、その「会話」を見る限り、多分に問題があるようです。したがって、Wikipediaにあるからといって、鵜呑みにはできないと思っています。
     計画は別として、大和の46サンチ砲、フューリアスの18インチ砲を超える艦砲が実装されたのかどうかというのは興味深いものがありますが。
     
    hush

  18. >>17 回答ありがとうございます。

     やはりサイズ的にモンス・メグが乗る場所が無いんですよね。

     中央の最上甲板は既に左右に砲座が設けられているし、船の全幅が11mしかないのに全長4mの大砲を乗せても装弾作業自体が困難でしょうし・・・かといって船首楼改造してもフォアマストがど真ん中を貫通してるはずなんでモンスメグが入る空間を確保できそうな気がしません。
    おうる


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