296 お久しぶりです。
江戸時代の日本の鉄砲の威力はどのくらいのものだったのでしょうか。(殺傷能力とか有効射程距離とか)
なぜこんな質問をするかというと一揆のことを調べていて、こんなことがあったからです。
越後の国で、一揆が起きたときに、新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させたそうです。
薪が鉄砲に勝つなんて。もちろん人数比のこともあるので、負けることもあるでしょうが。
よろしくお願いします。

見習士官

  1. 過去ログにも同じような質問が有ったと思いますが?

    有効射程で言うと平均的に50〜80m前後。
    威力は38口径から散弾銃程度は有ります。
    つまり鎧兜を十分に貫通出来るわけです。

    一揆の件ですが詳しくは解りませんが奉行所側がどの程度の数を備えていたか?そして一揆側の数がどの程度居たかでしょうね?
    現代のデモでも投石等は集団でやると殺傷能力高いですから馬鹿には出来ません。
    SC

  2. 本当に撃ち殺す為に鉄砲が使われたのかどうか、という点も大切だと思います。
    BUN

  3.  江戸時代の一揆で武家側が鉄砲を使用する場合、空砲ないしはそれに類するもので射撃して一揆側を殺す事はあまり(というか殆ど)ありません。追い払う事が目的です。江戸時代の武士にとって一揆は戦ではなく、治安維持の為の行動です。あなたの質問の一揆がいつのものか解りませんが、島原の乱以降、武家が一揆を攻め立てて殺戮する例は殆どなく、一揆とは双方が対峙して政治交渉で妥協点を探す事が普通になります。一揆の死者は小競合いの中か、一揆の終息時に処刑された者が殆どです。
    昔不沈艦

  4. 過去ログにもかなり書いた記憶があるのですが…

    ここの#268に参考文献を載せてます。あと、火縄銃というのは口径や銃身長が非常に多種多様なので、『殺傷能力とか有効射程距離』というのはピンキリです。
    SC氏の言う例は、多分、5匁弾を使う最大公約数的な例でしょう。江戸期でも末期はゲベール銃なんかが導入されますが…

    一揆の場面については、奉行所の鉄砲隊の人数が何百人も居ないだろう、ということと、銃の装弾にどのくらい時間がかかるか(または、銃弾や装薬をどのくらい携行していたのか)で、容易に想像できます。

    奉行所側がせいぜい10〜20人、町人側が100人以上居れば、拳銃装備の警官(現代)でも、ゲバ棒+投石のデモ隊に制圧されそう、と想像できせんか?
    TOSHI!!

  5.  質問は新潟明和騒動の事だと思います。(薪と鉄砲の対決云々で有名なのは、コレ位ですし)

     1768年(明和5年)に起こった一揆ですが、この当時の新潟は長岡藩の新潟町奉行所が支配していました。
    新潟町奉行は120石から230石前後の藩士がなるもので、奉行所の装備も役高に併せた分+αと思います。
     江戸時代は、幕府が大名や旗本に対する軍役義務の規模を定めており、残された文書等から、長岡藩もそれに則った軍備をしていた事が判ります。

     長岡藩の軍制での鉄砲隊は、鉄砲30丁の隊が2隊、25丁の隊が15隊で、計435丁。それに加えて、家臣達(の家来)が持つ鉄砲があるので、藩全体で530丁強程、保有していた事が判ります。
    で、鉄砲隊は藩直属なので、奉行所等には通常配備はしないものです。
    そうなると、奉行となった家臣(の家来)が持っている鉄砲というのが一番使用される可能性は高いかな、と。
    当時の長岡藩家臣で、鉄砲を自前で持てる最低ランクは番頭クラスの石高180から250石辺り。長岡藩の規定だと番頭クラスで、鉄砲は1丁なのですよねぇ。丁度、新潟町奉行に選ばれるクラスですね。
     新潟町奉行は、明和5年の騒動当時で二人在職。
    なので、自前で持ち出せる鉄砲は最大で2丁。これに+αがあったとして5から10丁あったか無かったかと言う線ではないかと。
    これ位の数で威嚇しても、どれだけの効果があったか、ちょっと効果については疑問符が付きそうですよねぇ。

     新潟明和騒動は確かに町衆の蜂起ですが、その裏で黒覆面を被った長岡藩士らしい集団が指導したりしています。単純に薪を投げただけか否かは、難しい所かもしれませんね。


  6. 皆さん、ありがとうございました。人数のこととか、奉行側の考え、とか、納得しました。
    見習士官

  7. 決着ついているようですが蛇足として。

    新潟明和騒動で鉄砲が持ち出された時の死傷者については「新潟町騒動ニ付キ聞書」という記録に記載があり、それによれば「鉄砲ニ而二三人モ疵ヲ得候者モ有之、即死之者も壱人有之由」となっています。当時の新潟町奉行所は伸さんが書かれているように奉行が2人、それに加えて同心が10人という構成で、この騒動の際にはその他に町役人(これは町人です)が手勢として加わっていたようです。ただし、町役人が鉄砲を所持していたとは考えがたいです。

    負傷者の数などから考えても、持ち出されたせいぜい10丁までという推測は正しいのではないかと思います。これでは最低でも3,400人はいたと思われる町衆に対抗することは難しいでしょう。

    そのためか、長岡藩は鎮圧のために、二波に分けて足軽50人と物頭1人小頭2人を水路で派遣しています。

    以上、「長岡市史」、「新潟市史」を参考にしました。
    えうてるぺ


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