297 日本のレーダー開発においてよく言われる事として、闇夜の提灯の話があります。

ウィキペディアからの引用になりますが、
「世界の実用レーダー技術の元になったのは八木秀次・宇田新太郎の発明した八木・宇田アンテナであったが、日本軍はレーダーにあまり注目せず、むしろ逆索で感知されるだけの「闇夜の提灯」と揶揄した。大戦中、米英のレーダー技術に触れ、急遽開発を本格化したころには技術は大きく離されていた。」
とあり、これは日本のレーダー開発で決まってでる話かと思われます。
日本の先見の無さを表すエピソードとして良く出る話ですが、このような決断をされた理由がどうも腑に落ちません。
代わりにに赤外線暗視装置を開発するというものでもあったらしいですが、何故こちらが重視され、レーダーが過小評価されたのでしょうか。
天ヶ崎

  1. レーダーを軽視していた、という前提そのものは本当に確実なものなんでしょうか。
    BUN

  2. >>1
    恥ずかしながら、私にはさっぱり分からないんです。

    >レーダーを軽視していた、という前提そのものは本当に確実なものなんでしょうか。
    一文で表すなら、まさにこの事が疑問なんです。

    よく言われる話として、日本軍はレーダーを軽視していたという話を聞く事はあれど、レーダーを重視又は軽視していなかったという話はまず聞きません。
    ただ、
    「本当にレーダーを軽視していたのか。八木アンテナに対する無関心や闇夜の提灯の話は本当なのだろうか。もし本当だとしたら理由があるのではないか。」
    という疑問もあって質問させて頂きました。
    天ヶ崎

  3.  良く言われる「闇夜の提灯」ですが、これは日本無線史10巻海軍無線史に書かれているフレーズが広まった事だと思います。
    昭和11年(1936)11月に海軍技術研究所電気研究部の谷恵吉郎造兵中佐がレーダー研究を始める事を上申すると上官が、
    『敵艦を探知するのに自分で電波を発射するのは恰も暗夜に物を探すのに提灯を用うる如きものである。物を探し当てることは出来るかもしれないが、その前に自分の所在を暴露するものである。隠密行動を必要とする海軍に於いては必要のないものだ。』
    と言われと日本無線史には書かれています。

     上官が言う意味も理解は出来ます。
    海軍の場合、離れた相手の位置を知る為に、無線標定という事を行います。これは、相手の電波を多地点で受信し、それぞれの地点での相手の電波が発信されている方位を測定。各地点で測定した相手の電波が発信されている方位の延長線上の交点が相手が居るであろう海域と特定する方法です。
    コレは、何処の国の海軍でも行う事です。その為に、艦隊が隠密裏に移動する為に電波管制を行う訳です。真珠湾攻撃での第一航空艦隊の往路等は良い例でしょう。
     レーダーは、電波を発信し、その電波が相手に反射した電波を受信して、相手の存在や位置を知ります。で、この電波は反射を受信できる最大距離よりも遠くに届きます。
    だから、上官が谷造兵中佐に言った様に「手近の物を見つけられる」けど「見つけられる距離以上に電波が届く」ので「相手に此方の位置がバレる」よね、となるのです。

     ただ、質問者氏は“日本”と纏めておられますが、お馴染みの様に、陸軍と海軍で別けて考える必要はあります。



  4. >2だけだと、不親切か?
     軽視していたかと言うと、う〜んなのですよね。
    昭和12年(1937)3月に陸海軍、逓信省、大学等の研究機関が集まって『電波研究会議』を開催します。
    議題自体は無線通信が主なのですが、電波を使って敵の航空機を探知する技術の可能性についても議論しています。
    この時は“送信した電波が10km以上も離れた場所を飛行している航空機に反射して戻ってきて、受信機で感知できるはずが無い”と言う先入観みたいなものが元になって、結局は研究スタートとはなりません。
    結果は如何あれ、電波を使っての相手探知について軽視していた訳ではなさそうなのですよね。



  5.  伸さん、ありがとうございます。
    質問文の日本はつい日本海軍という意味で使ってしまいましたが、確かに一括りすべきでは無かったですね。

     ありきたりな話である事は承知ですが、ミッドウェー海戦やサボ島沖海戦などで早期発見され大損害を受けた事例を見てしまうと、アメリカのように配備できなかったものかという願望をつい抱いてしまうのです。
     日本の航空母艦パーフェクトガイドによると、
    「実際に電波を用いて物体を探知することを念頭に研究が始まったのは昭和11年頃」
    「欧州大戦が勃発し、在英武官からドイツあるいは英国でレーダーが有効に活用されている情報が伝えられ、次いで昭和16年の遺独視察団から詳細な情報がもたらされた。わが国で電探開発はこれを契機にして、昭和16年5月頃から急速に発展した。」
    とあります。
    また、「当時(昭和14年)は、数十km以上離れた物体を探知できるとは考えておらず、したがって、研究の方針も夜間航行中の艦隊陣形維持などが目的であった」ともあり伸さんが仰ったのと似たような事も書かれています。

     勿論、陸軍と海軍は分けて考える必要はありますが、
    ・何故、日本はレーダー開発が遅くなってしまったのか(もしかしたら、そう見えるだけなのかもしれませんが)
    ・「送信した電波が10km以上も離れた場所を飛行している航空機に反射して戻ってきて、受信機で感知できるはずが無い」
     「「手近の物を見つけられる」けど「見つけられる距離以上に電波が届く」ので「相手に此方の位置がバレる」よね」
     日本はこう判断しましたが、英米独などの欧米諸国でも同じように判断したのか
     もし違うなら、何故こうも判断が分かれてしまったのでしょうか。
    天ヶ崎

  6.  レーダー開発云々より、その基礎となる部分のスタートから欧米と日本では差があります。
    電波を用いて対象の位置を知るという装置は、イギリスで1915年に雷の発生位置を測定する装置が嚆矢となります。
    コレは雷が発生させる電波を指向性のあるアンテナで電波発生源を測定するという装置で、電波を発信する機能が無いので厳密にはレーダーとは言えませんけど、レーダーの原理と同一と言って良いでしょう。
    アップルトンが1925年には電離層の高さを観測する研究を行っていますが、コレは電波の反射を測定して距離(高度)を算出する装置を使っており、仕組みとしてはレーダーと言って良い物です。
    因みに、日本で同じ研究は海軍技術研究所電気研究部で1928年頃からスタートし、1932年に電波を使って電離層の高さを測定する研究を行っています。
    この段階で、単純に言って7年程の差があります。
    当然、文献等は日本でも読めますし、海外に留学した者達も学んではいますが、最新の情報は当然の如く機密だったりしますので、学んだりする事が出来る訳でもなく、遅れるのは当然の仕儀かと思います。

     当時のレーダーの先進国イギリスで、レーダー開発が本格化するのは1934年の「防空のための科学的調査委員会」が設置されてからですね。
    日本が昭和11年(1936)スタートとしても2年の差が着いてますし、アメリカでは同じ年(1936)に、パルス式レーダーの公開実験を行って成功しています。
    アメリカのレーダー研究が本格化するのも1934年辺りからですね。

     ことレーダー開発に関しては、スタートダッシュで出遅れて、何処まで行っても離される、としか言えないのですよ。



  7.  再度回答して頂きありがとうございます。
     平たく言えばやはり、基礎となる電波の研究が元から遅れていた為、で説明がついてしまうという事でしょうか。

    「八木アンテナは日本で無視されむしろ外国で注目された。もし日本も初めから注目していれば〜」
    「闇夜の提灯と一蹴されたが、もしその時点から重点的に研究がスタートしていたら〜」
    というタラレバが稀に言われますが、このような決断を下した理由は俗に言われる「日本海軍の電子機器に対する無理解。機械オンチ」ではなく、基礎となる科学力が不十分であった為、見通しが立たなかったと理解の方がよろしいのでしょうか。
    天ヶ崎

  8.  八木・宇田アンテナが云々とか言うのは、御伽噺と思うべきでしょう。
    八木・宇田アンテナの論文が世に出るのは1927年。さて、アップルトンの電離層計測の研究は何時の事でしょう?
    アンテナはレーダーの効率を高める上では重要ですが、肝ではないですよね。

     戦後に米軍が八木教授に戦中の研究開発について事情聴取をしますが、結論として「軍部と民間の協力関係が不十分でかなりの不満を持っていた」としています。

     当然、基礎的なデータが無いので有効性を証明するだけの物が提示できなかったというのもありますが、根本的な部分の物を開発する為の国家的な組織論だとか、既存技術を纏め上げる等が軽視されたのが一番なのではないでしょうか。



  9. ありがとうございます。
    成る程、アップルトンの研究や日本無線史を調べてみることにします。
    天ヶ崎

  10. >8. 開発する為の国家的な組織論だとか、既存技術を纏め上げる等が軽視されたのが一番なのではないでしょうか。

    陸軍電波兵器の開発を担った陸軍兵器行政本部第7陸軍技術研究所長 そして最終任
    多摩陸軍技術研究所(登戸研究所後身)付の長沢中将は、戦後20年ほど経って公刊された
    “陸戦兵器総覧”巻末で以下の如く述べています。

    要約
    「陸軍では用兵科万能で兵器技術は不遇の地位にあった。新兵器の出現はこのため大きな制約を受けたように思われる。
    陸軍の首脳部を含めすべての決定権を握っていたのは、陸軍大学を卒業し、戦略戦術に通達した人びとであったが、
    不幸にしてこの人びとは科学技術に関する知識があまりにも低かった。
    これに反し、自己の用兵に十分な自信があったから、これが改変を要するようなことには一般に消極的で、
    各国に先だって一つの新兵器を大規模に採用し、これに適する新戦法を編み出すというようなことは、
    よほどな達観者を待たなければならない状態あった。
    したがって新たに採用される兵器は既存の戦術に適するものにかぎられてしまい、
    できても使われない兵器がたくさんあった。
      中略
    従来の戦術が行きづまり目的を達しえなくなると、急にその欠陥を新兵器で補足しようとし、
    いわゆる作戦上の要求として技術的の解決策を求めてくる。』


    少々愚痴の感もありますが、陸軍にては それまでの細々とした電探研究が、
    ドーリットル空襲を境にピッチを上げ、約1年後の電波警戒機の開発・配備となっている事がこれを物語っていますね。

    最早せっかく開発した 陽極分割マグネトロンは 攻撃的兵器しか頭にない首脳部の指示で
    殺人光線の研究に供試され無駄な方向にも進んでいます。

    軌跡の発動機?誉

  11. >10 最早せっかく開発した 陽極分割マグネトロンは 攻撃的兵器しか頭にない首脳部の指示

     誉さんなら知っている事かもしれませんが、イギリスでも用兵側の当初の考え方は五十歩百歩です。
    イギリス空軍科学研究部部長のウィンベリスは1935年1月に英南部のダチェットにある無線研究所の所長で電波を使って雷雲の位置を測定する研究をしていたワトソン・ワットに、電波を使って飛行中の航空機のパイロットに致命傷を与えられるかどうかを相談しています。
    ココでワットが「電波を使って航空機のパイロットに致命傷を与えるには膨大なエネルギーが必要なので実用化は不可能である。しかし飛行している航空機を探知することが出来,その距離と場所も特定することができる」と提言した事からレーダー開発が本格化するのですよね。



  12. >代わりにに赤外線暗視装置を開発するというものでもあったらしいですが、何故こちらが重視され、レーダーが過小評価されたのでしょうか。

    光学兵器の方から見ると暗視装置の主体となるシュミットカメラが世界で初めて作られたのが
    1930年で当時としては超ハイテクであることは間違いありません、レーダーより20年先を
    見据えた技術と言うなら赤外線鑑連を重視したのは間違いではないと思います。
     そんなことより簡単にいうとパッシブなセンサーの方が軍人には受け入れやすかっただけかもしれません。
    tune

  13. ウルツブルグのノックダウンを日電が担当し、フォダス氏を招聘したぐらいだから、一次レーダーが最重要、とする熱意も技術力も無かったことは確かでしょうね。
    98水偵を製造してみたり月光に八木アンテナをくっつけて実験したり、観測という観点から、あらゆる考察・試行はやっていたのでしょうけれど。
    フォダス会の方々は、ほとんど鬼籍に入られたのでしょうか。日電の方、御存知ありませんか?
    じじい


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